Web 鼎談:コンピュータ・サイエンスは21世紀の基礎科学になるか?

総集編 No.11

2月の鼎談

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11.1.強い社会的要請,それがCSの特徴!?

1月の鼎談から
根上: という訳で, 第一の選択肢「究極の仮想空間の探求」を語ることで未来のCSのイメージ作りをしましょう. 渡辺さんが不在の間, 松井さんとしばらく語り合っていましょうよ.

[0238] 根上 CSでの「こんなことをしたい」って何ナノ? それが「究極の仮想空間」へとつながるのでは.

さて, 確かに究極の仮想空間が見えていないわけですが, 自然科学だって, 時代時代で観測できるものや受け入れられるものを駆使して, いろいろなことをやっていたわけだし,状況は似ていますよね.

結局, 「どんなことをしたい」が重要です. その思いと, それに伴う行為の積み重ねが未来を決めていくのだと思います.

では, CSにおける「こんなことをしたい」は何ナノでしょうか? ここまででは「究極の仮想空間」という言葉で逃げていたわけで, その辺をあまり明らかにはしていませんでした.

私が「究極」という言葉を使ったのは, 計算機やCSの進歩にともなって現れる仮想空間をすべて包含するような, 極限的な仮想空間の存在をイメージしたからです.

自然科学においても, 私たちが「科学」として表現しているものは, 時代の認識に即応したモデル空間でしかありません. それは時代とともに変化します. でも, 本当の宇宙空間と対等な究極のモデル空間の解明を夢見て研究しているのではないでしょうか. 「究極の仮想空間」も, そういったイメージで考えています.

[0240] 松井 コンピュータのの進展の速さも考慮しておかないと危ないですよ.

おっしゃる事は分かります. ただ, コンピュータのの進展の速さは, 数学や物理あるいは化学と比べても格段に速いと思います. 他の学問とはスピードが違う事は注意すべき事と思います.

[0240-2] 松井 企業で製品開発に携っている研究者が 「究極のモデル空間の解明を夢見て研究している」とは思えない.

それから, 「現在は存在しないけど将来開発されるかもしれないハードウェア」 を予測して研究している研究者は, CSには大勢いると思います.

付け加えるならば「将来何が起こるのか予測して研究を進める」のは, 科学者的ではないかもしれませんが, 企業の研究所などでは基本的な姿勢ではないでしょうか. 企業の研究所等での製品開発の研究等に携っている研究者の多くは, 「究極のモデル空間の解明を夢見て研究している」 のとは違うのではないかと思います.

[0242] 根上 でも基礎科学の話ですからね.

なるほど. 松井さんの言っていることはそのとおりだと思いますが, 「基礎科学」の話ですからね. 情報リテラシーはもちろんのこと, 製品開発となるなると,ますます「基礎」というイメージから外れてしまいます.

また, 「将来開発されるかもしれないハードウェアを予測して」と言われましたが, CSと関係ない人が そういうハードウェアを作って与えてくれるわけではないですよね. 大勢の計算科科学者の個々人の心の中には, 未来のハードウェアを生み出そうとする気持ちがなくても, 他人任せにせよ, CSをやっている人たちの中には, こういうハードウェアを生み出したいと思う心が宿っていると思うのですが. そして, そのハードウェアとは「究極の仮想空間」を顕在化してくれるものです.

[0249] 松井 CSでは, 従来の基礎科学と違って, 「実利的な社会的要請」が抜き難く絡んでくると思います.

CSの人たちが関与しているのが実状だと言っているつもりです.

もう少し説明します. CSでは, その進む方向の決定に人間が積極的に関与できますね. そのとき,方向の決定には「実利的な社会要請」が非常に大きな力を持っていると思います. ここが従来の自然科学と非常に異なると思うのです. 従来の「基礎科学」のイメージにくらべ, 「実利的な社会的要請」は抜き難く絡んでくると考えています.

十分考えてはいないのですが, 上記の事はCSにいくつかの特徴を与える気がします. 例えば, 研究方法は「何でもあり」ですから, 最初にルールを決めて研究者同士が競うという形式が多くなりそうです. また複数のルールが共存していても, 研究費用の配分のためルールが一つに淘汰されていく事が多いでしょう.

これからのCSの研究者は, CSのそんな特徴を理解していないといけないと思うのです. たとえば, 「実利的な社会要請」から大きく外れた研究は, もちろん儲けにはつながりませんが, それだけでなく, たとえばその研究で前提としているハードやソフトが 現実世界ではどこにもない(誰も考えそうにない)ことが多いにありうるわけです. 「作れない」のではなく「作れるのに(誰も重要と思わないので)作られていない」です.

その研究を実現するハードやソフトが現実世界にないのだから, その研究は「その時点」では現実的でないですよね. しかも, 「ない」理由は, その研究の質とは違う理由で決定されているかもしれないのです.

[0250] 根上 それは他の基礎科学でも同じなのでは?とくに発展段階では.

松井さんが言われていることは正しいと思うけれど, CS固有の現象ではないような気もします.

あまり歴史に強くないので断定的にはいませんが, 自然科学にしろ,数学にしろ,その時代時代の社会的要請または制約を受けて発展していると思います.

たとえば大航海時代なら, 航海術に必要な球面幾何学や 天体観測技術につながる研究などが盛んに行われたのではないでしょうか. でも, 社会的要請の波が終わってしまうと, それぞれは独自な方向で動き出すたわけです. 現実の世界では実現不可能な対象を議論する現代的な幾何学や, 何万光年も先のブラックホールの周辺のようすを覗き込むような 望遠鏡の建造のように.

CSの場合も同じことで, 上の例に喩えるならば, 今が大航海時代なのではないですか? だから社会的要請ばかりが目についてしまう. でも, ゆくゆくは社会的要請とは切り離されたところでの 基礎研究が盛んになるのではないでしょうか. そうでないのなら, 以前, 松井さんが引用していファインマンの言葉のように, CSは「科学」に昇格するようなものではないとも考えられます.

[0251] 松井 でもCSの世界は人間が作り出すものです. そのプロセスで現実の要請が入り込むと思うのです.

そうでしょうか? これまでの自然科学でもある基礎科学は 社会的要請から切り離されたところがかなりあったと思います. でも, 以前根上さんがおっしゃったように, 計算機の画面の向うにある世界は自然世界ではありません. 人間が作り出さないと存在しない世界です. その切り出すプロセスに現実の要請が入り込むと思っているのです.

[0252] 根上 現状ではそうかもしれませんが,未来はどうでしょう?

「社会的要請」に関する議論は多少水掛け論に陥りそうな予感がしますね.

私は(CSを含めて)どんな自然科学でも, その発祥の当初は「社会的要請」に縛れれて動いているけれど, それがだんだん「社会的要請」から切り離されて 基礎科学になっていくと主張しているわけです.

一方, 松井さんは, CSはちょっと違って, その「社会的要請」からは切り離されることなく発展していく. そのために, 今までとは質の違う基礎科学が生まになっていくと主張したいわけでしょう. (乞確認!)

現在のCSに関しては, 私と松井さんは同じ見解ということになります. 逆に言えば未来が違う. その未来像を表現しあう必要があると思います.

[0253] 根上 究極の仮想空間は人間が作り出す世界ではありません. 人間とともに存在していますが断片しか目の前には現れません.

それからもう一点. 「人間が作り出さないと存在しない世界」と「究極の仮想空間」との差も重要です.

前者は人間の意図に揺り動かされてしまう世界という感じがしないでもない (あくまで語感の問題として). 一方, 後者では,不変(普遍でも可)なものを意味しています.

私の言っている「究極の仮想空間」というのは, 人間の存在とともに普遍的に存在しているのだけれど, その時々のテクノロジーのレベルに応じて, 現実の世界(パソコンの画面の中の世界など)に現れてくるものは, 限定的なものになっているというような意味を込めた言葉です. だから, その時代時代に登場する「究極の仮想空間」の断面は, 「社会的要請」に大きく依存して存在することになる,という意味では, 松井さんの考えに同調することができます.

でも,その人間とともに存在する「究極」の存在を模索する行為は, 「社会的要請」を超えたものだと思います.

[0254] 松井 はい.作り出すというより, 仮想空間から切り出すといった方がよかったです.

[0252] の乞確認!はその通りです.

それから, 「人間が作り出さないと存在しない世界」と「究極の仮想空間」との差についても, その通りです. 私の言葉使いが悪かったですね.

計算機の画面の向うは, 「人間が作り出さないと存在しない環境だ」とでも言うべきでした. 「仮想空間」は仮想なので, それを切りだして(切り出したものを環境と呼ぶならば), 環境を共有するというステップが必要です. このステップが他の自然科学に比べ非常に特徴的ですよね. 「環境を切り出して,共有する」というステップで, 社会的要請が強く入り込むのではないかと予想しているのです.

[0255] 根上 なるほど. 切り出すプロセスで社会的要請が入ってくるというのですね.

なるほど. 「環境を切り出して共有する」というステップでの社会的要請と, 以前渡辺さんが言っていた「ルールを決めて」という話とが絡んではこないでしょうか?

あのときは, CSにおける構造の欠如などを強調するために, 「どんなルールだっていい」と渡辺さんは言っていたのだと思います. でも, 心の奥では「なんだっていいわけではない」 と思っていたのだと勝手に想像しています. (そろそろ,渡辺さんもスペインから帰った頃でしょう.)

つまり, 社会的要請によって,いいルールと悪いルールが区別されるとのではないでしょうか? でも,その際, 「社会的要請」を「経済原理」のようなものに矮小化しすぎてしまうと, 話が変な方向に行ってしまいます. 儲かるルールと儲からないルールのような...

で,その話(いいルールと悪いルール)の延長上に, 私の「人とともに存在する究極の仮想空間」という怪しげな表現の謎解きが待っています. その Corollary として, 教育との関係も明らかになります. (神様担当なので,何も恐れず,平気で断定してしまう私でした.)

[0256] 松井 そのときに「社会要請」を「経済原理」に矮小化してしまう力が, とくにCSの場合には強く働くのでは.

根上さんのまとめには,まったく同感です. もう少しいうと, 「社会要請」を「経済原理」に矮小化してしまう強い力が, CSには働くと, 私は感じています. 矮小化の力の強さは数学とは比べ物にならないほど強いと思います.

ですから, CSの研究者は上記の点に十分注意しないと研究が変な方向に行ってしまう, というのが言いたかったことなのです.

11.2.CSに対する社会的要請と学問の独立性

[0257] 根上 実際にCSがどんな社会的要請を受けているのですかね?

で,議論を先に進める前に, 「現在」のCSがどんな社会的要請を受けているのかも聞いておきたいですね. このままだと, 「社会的要請」=「儲かる」以外の構図が表現されていないです.

私たち3人の中で計算機科学者を自称できるのは渡辺さんだけなわけだし, 渡辺さんはどのような「社会的要請」を受けていると感じているのでしょうか? 渡辺さん,いる?

[0258] 渡辺 復活! コンピュータの進化のスピードは異常です. CSの研究をゆがめる/誤解される危険性もあります.

バルセロナから戻ってきました.長いこと留守して申し訳ありませんでした.

社会的な要請の話が随分出ていたので,そのことから話しをはじめましょう.

松井さんも指摘されていたように, コンピュータの発展とその利用形態の進化のスピードの速さには, 驚くべきものがあります. そのおかげで, 我々計算機科学者は飯のたねにありついているのですが, 逆に,そのあまりの速さは,我々にとって脅威でもあります.

たとえば,米国の著名な計算機科学者でチューリング賞受賞者でもあるハートマニス教授は, この発展のスピードがコンピュータ・サイエンスをサイエンスにするのを阻む可能性がある, と以前,警告していました. (詳しくは,参考文献参照. また, これに関してCS内でも一時盛んに議論されたのですが, その一部をまとめたもの もあります.)

世の中の人々が, コンピュータのあまりの便利さに, コンピュータは単なる道具と思い込むようになってしまうからです. これは一般人に限らず,技術者,科学者,そしてコンピュータの研究にたずさわっている人でさえです. したがって, 道具を改良したりする「技術」は認めるものの, それは単なる技術であって,そこには科学はない, と思い込んでしまうのです.それが脅威なわけです.

米国では状況はかなり改善してきています. 何しろ,コンピュータは金を産み出します. インターネットのドメイン名の登録料だけで, NSF (National Science Foundation) は莫大な利益を得ました. 幸か不幸か,米国はお金の社会です. お金があれば新しい科学の分野だってできます. 実際,NSF では,健康科学(医学関係),工学,自然科学,人文科学などと並んで, コンピュータ・サイエンスは, 科学技術の五大分野の一つになりました.

一方, 日本では, お金が儲かることは,かえって「科学から離れたこと」とみなされる風潮があります. もちろん,皆さんに使ってもらえる物(ハード・ソフト)を作り出すには, 科学以外のセンスも多く必要です. でも,だからといって,「そこには科学はない」という風潮は, 我々にとって大変悲しい状況です.

しかも,我々,計算機科学者は,そこに新しい基礎科学のたねを見出しつつあります. さらには,「これは単にコンピュータにとどまらない」という予感さえします. つまり, 「社会の要請」によって人間によって作り出されるいろいろな物 (ハードであれ,ソフトであれ)の「作り方」に対する基礎科学になるのでは, と考えているわけです.

そういった認識を持っている人たちは日本ではまだ少数ですし,発言力も弱いのが現状です. でも, コンピュータの利便性に目をとられて, この基礎科学の芽を見過ごしてはならない,と私は思っています. そういう意識もあって, この鼎談をやろうと言い出したわけです.

[0263] 松井

なるほど,この鼎談にはそういう意図もあったのですね. 渡辺さんの「CSが基礎科学になって欲しい」という願いが, どこから来ているのか少し分かった気がします.

[0261] 渡辺 一方, CSが社会的要請から完全に分離してしてしまったら CSではなくなるかもしれません.

ご理解ありがとうございます :-)

ところで,お二人の対談では, 基礎科学と社会的要請の話が出ていました. 根上さんの話には, 「社会的要請から独立できない限り基礎科学には昇格できない」 といった雰囲気を感じます. でも,社会的要請から切り離されることが基礎科学として本当に重要でしょうか?

CSは社会から分離してしまっては死んでしまうように思います. さらに言えば, 社会的要請から独立に純粋なものになっていったら, CSは科学にはなるかもしれませんが, 新しい基礎科学にはならないと思います. 私が以前から主張していた「新しさ」は, 人間のために,人間に依存した部分がありながら, それが工学ではなく科学である点にあります.

[0262] 渡辺 探求方法の研究という立場をとれば, 「社会の要請」と「科学としての独立性」の矛盾にも悩まなくてすむのです.

では, この「社会の要請」と「科学としての独立性」の矛盾をどう解決したらよいでしょうか? 私が 1月の鼎談で, 根上さんの二つの選択肢の二番目に固執していた理由はここです. 誤解があるといけないので,根上さんの二つの選択肢を復習してみましょう.

(未来の)CS研究の捉え方についての二つの選択肢
  1. CSにも「究極の仮想空間」という真実の世界があって, それを追求するのがCSである.
  2. CSでは探求する世界自体は重要ではない, その探求方法(アルゴリズムや,表現方法)が重要なのである.

つまり, 選択肢1においては,その仮想世界は唯一ですし, その公理系(実際には,記述不可能かもしれないが)が一つあるという立場です. 一方, 選択肢2では仮想世界は, 公理系(ただし,この場合は,記述可能な公理系が対象)ごとにいくつもあるという立場です.

また, 選択肢1では, その仮想世界のことが興味の対象であるのに対し, 選択肢2では,個々の仮想世界自身のことは,その場では重要かもしれないが, CSとしては重要ではない, むしろ,与えられた仮想世界の探求法(処理方法)が重要である,という立場です.

さて,それではなぜ, 選択肢2をとることが,先の社会的要請と科学としての独立性の矛盾の解決になるのでしょうか? それは, 社会的要請を受け入れる部分を「公理を作る部分」に切り離しているからです. 仮想世界は,その必要に応じて適当に作ればよいのです. 我々の研究は,それを処理するところ, あるいは,その公理(をうまく作るため)の作り方にあるのです. つまり, 選択肢2をとることにより, ある程度の独立性を確保することができ, しかも処理方法や表現方法における「真理」の探求に目を向けることができるのです.

1月の鼎談でも解説したように, 上記の解釈は私流の解釈で根上氏の本来の意図とはずれています.

[0261] 根上

ちょっと誤解があるなぁ. 私が言っていることと松井さんが言っていることは別に矛盾はしませんよ. 私の言っていることは根源的なことで, 松井さんが言っていることは現象的なことです.

私と松井さんが使った「社会的要請」とは, 「経済原理」に近い意味で, 悪い言葉で言えば「儲かる・儲からない」という価値判断のようなものです. 一方, もっと純粋な社会的要請でしたら, それとは切り離されることなく科学が成立できますよ. と切り離されることなく科学が成立できますよ.

私は, 基礎科学的な価値というのは「儲かる・儲からない」という価値とは独立だろうと言っていて, 松井さんは, 究極の仮想空間を切り出して環境とするためには人為的な行為を伴うので, 「儲かる・儲からない」という価値が大きく影響せざるをえないと言っていたのです. つまり, CSの研究の話とその応用の話をしていたわけですよ.

[0262] 松井 探求法自体は, 複数の「個々の仮想世界」にまたがるような(汎用な)ものが求められるのですね.

はいそうです.

この考え方は, 渡辺さんの話とも整合性が取れていると思います. (儲かる話も一部部として含む)社会的要請は, 「究極の仮想空間」から「個々の仮想空間」を切り出す部分に, すなわち公理系を決める部分に, かなりの部分を押し込めることができるわけですよね.

確認しておきたいのですが, 渡辺さんが「個々の仮想世界自身より探求法が重要」と言うとき, 探求方法の研究は個々の仮想世界毎に閉じていないですよね. 探求法自体は, 複数の「個々の仮想世界」にまたがるような(汎用な)ものが求められるのですね.

いや,「求められる」は適切ではないですね. 多くの「個々の仮想世界」に関連付けられるという事が, その探求方法の「美しさ」や「良さ」の尺度になるのですよね. こう言ってしまったら言い過ぎでしょうか?

この後, 選択肢に関する議論が再熱しますが, この総集編ではすべて1月の鼎談に入れてしまいました. ただ, 話の展開上, 以下にちょっとだけ重複して挿入しておきます.

[0300] 渡辺 はいそうです.汎用性も重要なキーワードですね.

はいそうです. 整理すると,

研究対象と研究方法の対で1つの研究分野ができていると考えるとして, その分野の研究方法の研究の汎用性に気づいて, 他の分野の研究分野の研究方法にも適用できるものを生み出せると, その研究方法の研究自体をコンピュータ・サイエンスと呼ぶことができる

となるでしょう.

[0261-2] 根上 それならば, 究極の仮想空間の研究の見方でも言えます. 社会的要請は, 個々の仮想空間を「切り出す」部分で影響してくるわけです.

そうならば, 私がいうところの「究極の仮想空間」の中でも展開可能です. 自分流に公理を設定して世界を作ることが許されているからです. ただ,「究極」をつけているのは, すべての仮想空間がそこで実現可能な超越的な空間で経済原理などとは独立だからです. 超越的でかつ人間とともに存在している空間です.

1月の鼎談でもコメントしたように, CSの研究が完全に仮想空間の世界だけのものとなることには問題があると思っています. でも, 当時はまだそこまで考えが熟していませんでした.

11.3.CSに対する根上氏の4つの疑問

[0296] 根上 渡辺さんの説明を受け入れるとして, 次のような疑問4つが出てきます.

ここでは, 渡辺さんの説明 [0300] を受け入れることにしましょう. 仮にそうだとすると対して次のような疑問が出てきます.

[0301] 渡辺 疑問2の答え:Yes

まずは簡単に答えられるもの,疑問2からいきましょう. 先にも述べたように, 「抽象化」というといかにも高級そうに見えますが, アプローチが違うだけで一段上に立っているわけではありません. 「微視的な」というキーワードに関しては後で述べます.

[0301-2] 渡辺 疑問4の答え: 何ともいえない.少しずつ影響力は増している

つぎに疑問4について. これは厳しい質問です. まず,いろいろな研究分野に適用可能な研究方法を与えているか, というと,多分,ある程度は与えられるようになってきたと言えると思います. ただ,数学や物理が他分野に及ぼす影響を考えると, まだまだまだまだ...(まだの10乗)といったところでしょうか. そのためには,どんな研究をしていかなければならないか, というところも,この鼎談の話題にのぼったところですよね.

一方,いろいろな研究方法を研究する方法といったメタな部分の研究も, 前の例にあったエキスパートシステムという考え方とか, オブジェクト指向言語の考え方など, いくつかあります. でも,こちらの方は, かなり概念的な話になってしまうので避けたほうがよいかもしれません.

[0304] 根上

当然といえば,当然ですが,渡辺さんは簡単な質問から答えてくれたようですね.

とくに疑問4は答えが Yes でも No でもかまわない質問です. 以前から私がよく書いているように, 「現存のCSがどうなのか」ということと, 「どういう基礎科学が生まれてくれるか,生まれてほしいか」は, 強い相関があるにしても独立な事柄だからです. いまは新しい基礎科学が生まれいく途中の段階なので, 現在のCSがその期待に応えられるほどに成熟していなくても何も問題ではありません.

困るのは 「現在の計算機科学はこうなんだから,こういうスタイルの基礎科学を認めよ」 という発想です. そういう発想に陥ってしまうと未来が正しく見えてこなくなるので, 気をつけて議論をする必要があります.

[0305] 根上 疑問2は No なのでは? 「計算」や「ルール」についての研究が, 他の様々な研究分野に適用可能なのでしょうか?

このことに関連して疑問2が用意されています.

渡辺さんが教えてくれた「現在のCS」におけるいろいろな研究事例は, 確かに「計算」や「ルール」というキーワードで表現できると思います. そういう研究が他の研究分野の研究に適用可能な抽象的なものだというのなら, そのキーワードを私たちが期待している 「基礎科学」を表すもの(すべてではないにしても)として採用してもよいでしょう. でも,特に「作図の問題」などは, 他の分野に適用できる抽象的な研究とは思えませんよね.

したがって,疑問2の答えは No としておいたほうが無難です.

[0306] 根上 「計算」にとって代るキーワードとして 「究極の仮想空間」を持ち出したのです.

ではそれに取って代わるキーワードは?ということになりますが, 私は「人とともにある究極の仮想空間」という怪しげな言葉を用意したわけです.

とはいえ, そのキーワードの意味をそれほど表現していないので, 渡辺さんにそのイメージがうまく伝わっていなくても当然です. 言葉の響きから,なんとなくやな感じがするのも理解できます.

[0307] 渡辺 いまひとつよくわからない... 取りあえず疑問1への答え:No

う〜ん.神様(根上さん)の霊言を感じたいのですが,...

まあ取りあえず, 根上さんの質問の答えの続きをつらつらと書いてみます. それが霊験への道だと信じて...

次は疑問1です. これは核心にふれるよい質問ですね. 確かに「探求科学」でもよさそうですし, また, 学問やビジネスにおけ「処理方法」を研究するという意味で「処理科学」でもいいかもしれません.

しかしここで今まで私が言ってきたことを思い出してください. コンピュータ・サイエンスでは「処理」は「計算」と同義語なのです!

「計算」とは,単なる式の計算だけではないのです. メイルを出すシステムが行っていることも, 文書整形ソフトが行っていることも, ゲームソフトが行っていることも,...,すべてが「計算」なのです. つまり,一般的な感覚で言えば「処理」に相当することなのです.

ですから「処理科学」は, CS的に言えば,まさに「計算科学」となるわけです.

[0308] 渡辺 疑問1に関連して: 「コンピュータ」が使われるのはそれなりに意味があると思います.

では, 「コンピュータ(計算機)」というように「機」(機械)が前面に出てくるのはなぜでしょう? これには歴史的な経緯もあります. コンピュータが登場して, それを使うようになって始めて「処理=計算」という概念が確立してきたからです.

でも,もう一歩踏み込んだ解釈もできます. コンピュータが登場できたのは,

すべての処理(計算)は至極単純なルール(演算)の組み合わせで実現できる

という発見に基づいています. これを発見したのが, かのチューリングやゲーデルなどの人たちです.

多分,デカルトも感じていたでしょう. ライプニッツは近いところまで来ていたのかもしれません. でも, 「チューリング機械」という単純なルールの組み合わせで, すべての計算(処理)が実現可能であるということを明確に示したのがチューリングだったのです.

これがコンピュータ・サイエンスの最初の大きな発見と言ってもいいでしょう. このために単純な命令セットだけで十分であることが確信できたのです. それが現在のコンピュータの出現につながったわけです.

このことは前に残しておいた疑問2への答えにもなっています. この疑問で, 根上さんは 「なぜ, 様々な分野に渡る高級な研究分野が, 計算などといった限定的で微視的なキーワードに縛られなければならないのか?」 と聞かれました. ここまで述べたように, 単純なルールだけですべての「処理」を表すことができるのです. つまり,そうした,いかにも微視的なものが,実は万能な手段だったのです.

もちろん, チューリングの議論だけでは本当にすべての処理が実現できるとは, 実感しにくにところもあります. これは,以前,私が「すべては記号で表せる」と言ったときに根上さんが警告したことです. ゲームソフトがコンピュータ上で動くといっても, どうやって動いているのかが,ある程度わからないと, 単純な命令だけで実現できているとは実感できないのは確かです.

つまり, チューリングの定式化以来, コンピュータが出現して,実際に非常に多くの「処理」を実現してきたことが, 単純な命令セットの万能性を実証してきたことになるのでしょう. その意味でも「計算科学」ではなく「計算機科学」が妥当なのです.

[0310] 根上 今までのCSという意味ではよいでしょう. でも,探求方法の研究という解釈にはあいません.

現在に至るまでのCSに「計算機」が入っていることの意味はよくわかりました. 「計算」というキーワードに関してもよい記述がされていると思います.

でも,私の疑問1の答えにはなっていません. 文書整形にしても,グラフ作成にしても,ゲームソフトにしても, いろいろな研究分野に共通な上位概念を対象とする研究にはなっていないからです. そういう例を「計算機科学」と称するのはよいですが 「探求科学」が指し示しているものではないです.

一方,疑問2に対する答えは O.K. です.

[0311] 松井 疑問2の答えは明解です.

疑問2に関する渡辺さんの説明は重要かつ明解ですね.

問題は疑問1です. 私の言明も疑問1に関わっています. 「探求方法」は非常に広い範囲を指していますよね. 「探求方法の研究」がCSだというとき, そんな広いものを統一的に扱う事ができるのでしょうか?

「それは可能だ」というのが渡辺さんの主張ですよね. その根拠は, 「探求方法」は実は「計算」であり, そしてそれは計算機の中の仮想空間で実現されうるからです. それが可能なのは, 少ない命令のセットで構成可能だからです.

そこで私の主張です.

「究極の仮想空間」は 様々な探求方法を統一的に見て議論するための道具と見たらよい.

という事です. ここまでの話の流れでは,道具と言うよりもメソッドというべきでしょう. これが「究極の仮想空間がメソッド」という私の主張です.

[0312] 松井

私の認識はそこまでです. 「人とともにある究極の仮想空間」となるとよく分かりません.

11.4.根上師,ついに「究極の仮想空間」について語る!

[0313] 根上 「究極の仮想空間」のヴィジョンを与えます. ヴィジョンその1: 自然科学の「モデル空間」について

霊言,ビジョンを送ります.

「自然科学」は, 物質界,自然界,宇宙,物理空間などの言葉で表現される「世界」を認識するための「基礎科学」です. はたして物質だけを切り離して「世界」を認識することが正しい行為かどうかという疑問は残りますが, 「世界」を認識する1つの段階として, 「物質界」を理解するという行為は重要です. その物質界を理解し記述するための「モデル空間」を構築するために自然科学が動いています.

現段階で人類が獲得している「モデル空間」は未完成品でしょう. はたして人類がそこに到達できるかどうかは別として, そのモデル空間の究極形は本物の物理空間と対等なものです. それを「究極のモデル空間」と呼ぶのもよいでしょう.

その「究極のモデル空間」が存在すると思うこと自体がそもそも幻想だ, と言いたい人もいるはずです. でも,そういう発言をする人は, 数学における集合の極限を理解していない人です. すべてのモデル空間を包括する存在としての「究極のモデル空間」は概念的には存在可能です.

ここで私が「世界」と言っているものは, 概念的な存在ではなく実質的な存在です. しかし,人間はそれに直接接触することができません. いろいろな実験装置や観測機器を通して間接的な接触を実現します. さらには, 人間の感覚器,脳の認知システムなどを介して, 人間は「世界」と間接的な接触を実現します. ただし, ここでいう「人間」は物質界の一員としての人間ではなく, 「精神」とか「魂」とか「心」とか「意識」とか言ってもよいものを指しています.

さて, こういう人間と世界の間接的な接触という構図を考えると, はたして「物質界」は実在するのかという疑問が湧きます. あくまで人間が受容する情報の在り様を合理的に理解するために 「物質界」の実在を想定すると都合がよいだけという可能性があります. したがって, 「物質界」は人間にとっては「見え」の世界と捉えておくのが妥当です. それを「形」の世界と呼んでもいいでしょう.

[0314] 根上 ヴィジョンその2: 人とともにある究極の仮想空間とは

ビジョン2を送ります.

こういう自然科学の発展の副産物として「計算機」が誕生しました. 計算機は, 当初「形」の世界を理解し制御するための道具として使われていましたが, この世紀末のどん詰まりになって, 「東方の3賢人」が計算機のそれ以上の使い方を口にするようになったのです.

それは「人とともにある究極の仮想空間」の断面を切り出して「形」の世界に置くための装置です.

「仮想」は「実在」と対峙し不確かな印象を与える言葉です. しかし, 人間にとって, その「仮想」こそが直接体験できるものであり, 人間は「仮想空間」に対して, 「実在性」の不確かな「物質界」よりも実在感を感じることができます. でも残念なことに, 物質界に対する無意識的な執着や, 通俗的な「言論」に翻弄されて, その実在感を感じていながらも意識の上ではそれに気付いていない人々が多くのは事実でしょう.

いずれにせよ, 仮想空間の実在性は人間とともに存在します. 人間の存在がない限り仮想空間の実在性は意味がありません. そして, すべての仮想空間を包括する極限的な存在として,「究極の仮想空間」が存在します.

それは「究極のモデル空間」と同様に概念的な存在です. では,「究極のモデル空間」が本当の「物理空間」と対等だったように, 「究極の仮想空間」は何に対応するのでしょうか? それは「形式と意味」によって司られる「世界」です. この対応関係において, 「究極の仮想空間」をその「世界」を認識するための「メソッド」と捉えることができます.

その「形式と意味」の組を「言葉」と呼んでもよいでしょう. ここでいう言葉は, 日本語とか英語とかのような「言語」を含みますが, 「言語」よりも広い意味で使っています. 「究極の仮想空間」はすべての言語を包括する「究極の言語」で語られるべきものですが, 個々の「仮想空間」は個別的な「言葉」で語られることになります. この「言葉」によって司られる「仮想空間」は, 人とともにあり人の「意思」によって表面化されたものです. ここで「表面化」と言っているのは, 「究極の仮想空間」の中に実在するもので, 取り出しているという雰囲気を出すためです.

「計算」や「ルール」は「形式」に属すでしょう. それに人の「意思」(恣意的な「意志」ではない)によって, 意味を付随させることができれば, それらは「言葉」に昇格し, 実在性を伴う「仮想空間」を形成し, 「究極の仮想空間」の中に位置付けられます. 「形式」が生み出す「意味」は, 形式が豊な階層構造を形成すると生まれる傾向にあります.

[0315] 根上 ヴィジョンその3: 究極の仮想空間と既存学問分野の関係

ビジョン3を送ります.

このような「究極の仮想空間」の中には物質界の存在をほのめかす「形」の世界も含まれています. したがって, 従来の自然科学を含んでいるようにも思えますが, 自然科学は人とは独立に存在する「物質界」を研究対象としていることを忘れてはいけません. 「物質界」を表現する「言語」の世界が「究極の仮想空間」に取り込まれているのであって, 「物質界」が「究極の仮想空間」の中で実在しているわけではありません.

この構図を考えると, 「既存学問分野の研究方法の探究」を 「究極の仮想空間」を対象とする「基礎科学」の1つの機能と捉えることもできます. しかし, CSから生まれる新しい基礎科学の「新しさ」を機能に求めるのではなく, 私は「人とともにある」ものを対象とする点に求めるべきだと思います.

また, 「究極の仮想空間」を切り出して形の世界に置くための装置としての「計算機」の存在も重要です. 現存の計算機はチューリングマシンの実現物だから, 「計算」というキーワードに縛られていてもしかたがありません. しかし, 将来は「計算」とは別の発想の「切り出し装置」が登場するかもしれません. そうなったときには「計算機」という言葉は適切ではないでしょう. (まあ,歴史的経緯からその装置を「計算機」と呼ぶ羽目になるかもしれませんが.)

今でも, カタカナで「コンピュータ」と言えば「計算」というニュアンスは消えかけていますね. コンピュータの動作原理は「計算」に他ならないとしても, ワープロやゲームをやっている人の頭には, 「コンピュータ」という言葉はあっても,「計算」という言葉はないでしょう.

さらに, 「究極の仮想空間」が人とともにあるため, 個々の「仮想空間」を人間の意思とともに構築する際に, 「意思」ではなく「社会的要請」という名の恣意的な「意志」が介在してしまう危険性もあります. その危険性をうまく回避していかないと, 「究極の仮想空間」への道が遠のいていきます.

[0316] 松井

う〜ん,ヴィジョンが大きすぎて, なかなか嚥下できない(飲み込めない). とにかく,このヴィジョンは選択肢1の方に立ったものですよね.

[0320] 根上

もちろんです. 選択肢2を選択しても, 選択肢1に関わるビジョンは生み出せないでしょう. しかも, 私のビジョンは,選択肢2の発想も, CSの1つの発展経過として,その中に吸収してしまうことができます. というわけで,選択肢1の方が優勢なのです.

[0322] 松井

優勢なのはいいですが, 吸収できるのでしたら, それにより表現が豊かになるとうれしいです.

[0323] 根上 CSが進化していくと, 何かの構造が見えてきて, その構造を研究対象とするようになってくる. そのときに対象となるのが「究極の仮想空間」なわけです.

私自身の意見は,

  1. CSがメソドロジーであるかどうかは時代とともに変化する相対的なものである.
  2. だから,短期的にはCSのメソドロジー的な側面が強調されていたとしても, それによる「新しさ」は永遠に続くものではない.
  3. 次第に何かの構造が見えてきて, CSがその構造を研究対象とする個別分野のように振る舞う時がくる.
ということです.

[0328] 渡辺 話としてはおもしろいのですが, CSをそこまで高める必要があるでしょうか?

うわぁ〜,すごいヴィジョンが出てきたなぁ,というのが実感です.

根上さんの主張には, 私も同意する部分が多いですし, お話としてもおもしろいと思います. でも, 基礎科学云々を語るのに,そこまで昇華させなければならないでしょうか?

私は,CSをそこまで高める必要はないと思うのです. また逆にそこまで理想化しても, 実際の科学をする部分は処理法の研究の部分を超えないと思うのです. (すくなくとも今後100年くらいは.)

それからもう少し本質的なこと. 物理でも化学でも数学でも, 自然界真理の探求の学問分野ですが, 「真理の探求」という側面があるから基礎科学なのでしょうか? それならば生物学でも天文学でも, およそ自然科学だったらそうですよね.

一般人が基礎科学と言ってあがめている(?)のには, その他にも別の要因がありませんか? 私は方法論を提供しているところにあると思うのです.

[0339] 松井 現在のCSとギャップが大きい. その手前の段階でも, 「基礎科学」性を十分議論することができるのでは?

私も,渡辺さんの「そこまで高める必要があるでしょうか?」という意見に賛成です. たとえば, 「究極の仮想空間」に関する議論と 「実際にCSについての講義をするときにどんな内容を教えるか」 はあまりにギャップが大きいのではないでしょうか?

基礎科学として「新しく」出現するのならば, 発展の状態でも重要な意義が主張できるべきだと考えます.

[0340] 根上 いいですよ. それなら近未来的なところに限って語りましょう. そろそろ最終決戦の段階です.

まあ,いいですよ. そういうことならば, 近未来的なところで話をしましょう.

そういうことで, そろそろ最終決戦をする時期にきましたね. 隠し持っているものをすべて公開して下さい. その上で, 共通項や真偽の判定を未来に委ねざるをえないものなどを明らかにしていきましょう.

[0339-2] 松井 最後に疑問3について聞きたいですね.

ということで, 疑問3「計算機科学者はいろいろな分野のことに感心があるのですか?」 に入り込む時がやってきたのではないですか?

==> 3月の鼎談へと続く

2月分はさらに続くのですが, 長くなりましたのでここいらから先は3月の鼎談にまわすことにします.

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