Web 鼎談:コンピュータ・サイエンスは21世紀の基礎科学になるか?

総集編 No.12

3月の鼎談

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12.1.世界に羽ばたくCS!渡辺が熱く語る

2月の鼎談から
松井: 疑問3「計算機科学者はいろいろな分野のことに感心があるのですか?」 に入り込む時がやってきたのではないですか?

[0333] 渡辺 はい, 計算機科学者はいろいろな分野のことに関心があります.

それでは最終章に向けて力を入れて書くとして,その題材に疑問3を選びます.

「計算機科学者はいろいろな分野のことに関心があるのか?」に対しての答えは Yes です. 「計算」の持つ万能性に目覚めた人々が, それをいろいろな分野に適応させてみたくなるのは当然といえば当然でしょう. 少し長くなりますが,いくつか例をあげてみます. (具体性を出すために実名も入れます.)

[0333-1] 渡辺 CSが進出している分野:暗号,言語学

まずは,すでにCSがかなり浸透した領域から.

例1.暗号学

いまでこそセキュリティはコンピュータの基礎技術となり, 暗号の研究もCSの一分野と思われるようになってきました. しかし, 本来は暗号は通信理論,符号理論の分野でした. それに対し,公開鍵暗号などを提案し, 「計算論的」暗号理論という分野を作ったのは計算機科学者です.

最近では整数論の研究者も深くかかわるようになってきましたが, その橋渡しをしたのは計算機科学者だったのです. (数学者は,暗号などということは考えもしなかったでしょう. 実際,整数論が暗号にかかわっているのを嘆いている整数論の研究者もいますよね.)

例2.言語学

プログラミング言語のような人工的な言語でなく, 日本語や英語などの,いわゆる自然言語の研究です. 元々は自動翻訳などの研究から, 計算機科学者が言語学に頭を突っ込み出したのです. しかし, 辞書の形式化などを通じて,CSの研究手法が,この分野を大きく変えました.

自動翻訳のための電子辞書は, 普通の辞書を作るより,はるかに多くのことを考えなければなりません. そのためにデータ量も莫大になります. それをうまく表現するための研究が進み, その研究から得られた言語の見方が言語学の研究に大きな影響を及ぼすようになってきたのです.

たとえば,最近感銘を受けた研究の中に, 京大の黒橋さんの「の」の用法についての新しい解釈があります. 「の」の用法の分類は非常に複雑だったのですが, 自動翻訳の研究の過程で辞書中の単語の定義のされかたを解析した結果, かなり明快なルールで説明できることがわかったのです.

この二つの例は, 「計算」のアルゴリズミックな側面(例1)と 表現手法としての側面(例2)の例という意味でも対称的ですね.

[0335] 渡辺 CSが進出しつつある分野:生物学,統計学

つぎに現在進行形の研究の例をあげます.

例3.生物学

人ゲノムプロジェクトというのを聞かれたことがあると思います. 人の遺伝子情報を解明しようというプロジェクトです. これには多数の計算機科学者が参加しています. ただ単に道具としてのシステムを提供するだけではなく, 解析手法にかかわる研究をしている方もいます. たとえば, 宮野悟さんなどは, 我々と同じ計算量理論の研究者だったのですが(まあ,今でも一面はそうですが), これにどっぷりつかっていて,今では東大の医科学研究所の教授になっています.

一方,生体の機能そのものを計算システムとみて, 計算論的に解明しようという試みもあります. つまり「計算論的」生物学の試みです. たとえば, 慶応の富田勝さんは, 細胞をまるとごコンピュータ上に実現し(解析し)ようという研究に取り組んでいます.

ささやかですが我々のグループでも脳の機能を計算論的に解明する研究をしています. 私がやろうと言い出したのですが, 最近は,博士課程の山崎さんが頑張ってやっています. 脳機能の理論的な研究は物理の人も多く参入しているのですが, 我々のアプローチはそれとは大きく違います.

例4.データ解析(統計学)

最近,データマイニングという研究テーマが計算機科学の中で話題になっています. 大量のデータを解析し, その中に埋もれている有用な情報を掘り当てよう(マイニングしよう)という研究です.

これも従来は統計学の分野でしょう. でも, 計算幾何学や計算論的学習理論で開発されたアルゴリズムの中に, とてもうまく働くものがあることがわかってきて, 俄然,注目を集めるようになりました. 実は,私も最近,これにどっぷりつかっています.

[0336] 渡辺 CSが進出するかもしれない分野:経済学,社会学

さらに近い将来,出てきそうな分野についても述べておきましょう.

例5.経済学,社会学

経済や社会の動向を計算論的に解析しようという研究です. たとえば,1万人からなる社会を, 各個人があるルール(プログラム)に従って動く並列計算機システムとみて, その並列計算機システムの挙動を解析することによって, 個人の特性と社会の動向を調べようというアプローチです.

これは松井さんの方が詳しいでしょうがゲーム理論という分野があります. 確かに重要な学問ですが, CS的に見ると気持ちが悪い部分があります. 均衡点に進むプロセス(計算)についての議論がないからです. こういった部分にも計算論的なアプローチがなされとおもしろいでしょう.

このように見てくると, 計算機科学者はいろいろなところに関心を持っていることがわかると思います. (もちろん,そうでない人もいますが.) 数学や物理学の人にも, そういった他分野へ出て行って, その中で,数学や物理学をやっている人も大勢いるでしょう. でも, 計算機科学者(計算機技術者ではない)の数に比べると, 数学者や物理学者(含:その予備軍)の母集団ははるかに大きいです. ですから割合にしたらCSの方がずっと大きいと思います.

[0340] 根上 疑問3の答えにはなっていません. 聞きたいのは, 本質的に他の分野と関わりがある必要があるのか?という点です.

渡辺さんは疑問3の答えを Yes として上で, いろいろな例を示してくれたわけですが, 私の疑問の答えにはなっていません.

私の疑問は, 計算機科学者個人の興味関心の広さではなくて, 「計算機科学者像の中に他分野に対する関心の広さが含まれているのか?」 ということです. CSが本質的に他分野にかかわる性質のものなのか? ということです.

私の中では,疑問3の答えを No とした上で, 渡辺さんの示してくれた例を考えたほうが筋が通るのですが.

ここでも根上氏の疑問を取り違えた形で返答してしまいましたね. 人の話はよく聞くものですよね. ただ, 私としては次のことを主張したかったのです.

[0337] 渡辺 そうですね,失礼しました. でも,「計算」の万能性について言いたかったものですから.

確かに今の例は個人の話に過ぎませんね.失礼しました.

ただ, この例を通して, 「なぜ計算機科学者が他分野へ目を向けたくなるのか?」について語りたかったのです.

それは,まさに「計算」の万能性にあると言いたいのです. ある意味で(あるいは仮想世界で考えれば), すべてのことを「計算」として表すことができるからです.

ですから,何でも「計算論的」に見たくなるのでしょう. 大げさかもしれませんが, 自然科学全体が哲学と言われていた中世の頃の科学者の態度に通じるものがあるような気さえします.

では, こうした様々な分野でのCS的な重要性はなにか? 逆にいえば,分野から独立しているCS的な課題とは何か? それは,数(量)です. 莫大な計算時間,多量のデータ,多人数からなるシステム,などなど, すべて「多量さ」との勝負なのです.

今までの科学の観点からすると, この「量への対処」は技術でした. しかし私は, 「そこに新しい科学があるのだ」と主張したいのです. つまり,「ファインマンさん誤解ですよ」と言いたいのです.

この後 [0341] - [0351] で, 昔の話をぶりかえすような議論が続くのですが, 本論からははずれますので割愛します. 詳しくは元ファイルを.

12.2.CSは寄り合い所帯か?

[0354] 松井 他の分野との関わりが強すぎるのも問題ではないですか? 分野としてのまとまりがなくなるのでは.

さて, 「計算機科学者像の中に他分野に対する関心の広さが含まれているのか?」ですね. 私の思い描く像は「広くありたい」です. 多くの人はそう答えるでしょう.

これに対して, 「広くあらねばばならない」が正解か?について考えてみたいと思います.

例として私の専門の話を少ししましょう. 私の専門のオペレーションズ・リサーチ(OR)は, 「問題解決の学問」を標榜しています. 問題解決が原動力であるため, 問題のあるところに研究者が自ら移動します. そのためORの研究者は, 他分野に対する関心の広くあらねばなりません. 逆に多くの問題に首を突っ込むため, ORは便利な道具の詰めこまれている道具箱とも呼ばれ, それは「学問」にまだ至ってないのだ,という悪い印象を与える事もあります. 境界領域学問という呼び方もされましたが, 隙間産業ようなイメージに取られる事もあるようです.

「計算機は便利な道具であり,CSは便利な道具箱」 と思われている現状は, 現在ORがいる位置と非常に似ています. もちろんORは基礎科学とは違います. それに, OR研究者の多くは, 程度の差はあるにせよ他にも自分の分野を持っています. 取り扱う問題が異なる時は, ORの研究者間でも語り合うのは非常に困難を伴います. 各問題毎の研究者同士が語り合うのが可能なのは使うメソッドが同じ時です.

話が長くなりましたが, 他分野に関心を広く持ち, それに入り込む研究者が多いとき, CSの求心力というのは何でしょうか? CSとしての求心力無しには, いつまでたっても「CSは便利な道具箱」でしかないですよね.

「興味を広く持つ研究者」は, 個人の研究者像としては構いませんが, 分野としてはまとまりを欠く集団になり易いですよね.

[0356] 渡辺 そうですね. 求心力を持つためには「科学」の部分が必要なのですかね.

そうですね. 求心力を持つためには,多分,「科学」の部分が必要なのですよね.

私が言ってきたのは,CSは,これからの多くの学問の, とくに人工的な生成物に対する諸問題に対処していくための「基礎」になるという点でした. 「基礎なのはわかったけど,でも科学なの?」ということについては, ほとんど何も言ってこなかったかもしれません.

根上さんが究極の仮想空間の研究の話を持ち出したのは, その「科学」の部分を議論したかったからかもしれませんね.

[0357] 根上 CSは各分野の寄り合い所帯になりかねないですね. 各分野に左右されない 一般的な枠組みで問題を考える人々の集団でないと...

「究極の仮想空間」を持ち出したのは, CSの有り様を項目的に特徴づけるのではなくて, 一つのビジョンの下で語ろうとしたからです。

松井さんが懸念するところの「求心力の欠如」というのは, 計算機科学者の特性として「いろいろな分野に関心を持つ」を挙げてしまうと, 結局のところ, CSがいろいろな分野の研究者の寄り合い所帯のようなものに 成り下がってしまいそうだからではないでしょうか.

その点,私も同感です.

私が思うところの計算機科学者像(現存の個々の計算機科学者ではない)は, いろいろな分野のことなんかには大して関心はないけれど, 抽象的で論理的な議論を得意としていて, すごく一般的は枠組みで(それを何でもありというのでは?)設定された問題を, 計算もしくはそれを発展させた考え方で眺めて解決してくれる人です.

その解決された内容が一般的なので, 他の分野でも利用ができるから,みんなが基礎科学と呼んでくれるわけです.

[0358] 松井 かといって他分野に無関心だとよい問題が得られないのでは?

根上さんの言う計算機科学者像の 「いろいろな分野の事なんかには大して関心は無いけど」 というところは, 私は違うイメージを持っています.

どちらかと言えば, 「常にいろんな分野に関心を持っている」という方ですね. ただ, 個々の問題や分野に縛られることなく一般的な枠組みで問題を捉え解決していく, という点には同感です.

「いろいろな分野の事なんかには大して関心は無いけど」と言うと, 問題がどこかから降ってくるのを待っているように聞こえます.

それから, 求心力については,まとまる必要があるのか? という発想もあると思います. CSという学問自体が, 今までの他の学問より, もっと分散した学問になるのだという考え方もありますよね. 多声的,多元的っていうんでしょうか.

[0359] 根上 その反対! 抽象的なところで議論しているからこそ, 質のよい問題を見出すことができるのです. 一流の研究者ならば.

いや, その反対ですよ. 抽象的なところで議論しているからこそ, 質のよい問題を見出すことができるのです.

計算機科学者は彼らなりの独自の抽象世界を作り上げて, そこでの問題を考えているのだとします.(そう思いたい.) 抽象世界での問題探しは, 傍目には, どこかから降ってくるのを待っているように見えるでしょう. でも, そのどこから降ってくるのをじっと待つ能力, また降ってきた瞬間を逃さない能力というのがあって, それが計算機科学者の質を決めるのだと思います.

そういう抽象世界で問題を探すという特殊能力は, いろいろな分野に関心を持っているという特性とは独立だと思います. 私の計算機科学者像の中では, いろいろな分野に関心を持っていて(ここまでは個人としては尊敬できる), そこからその共通項を探したり, 抽象化したりして問題を作ってりる人は二流です.

一流の計算機科学者は初めから抽象的な問題を設定できて, 独自の方法で解決できる人です. さらに, その結果がいろいろな分野に応用されて, その分野に新しい視点や研究方法を生み出すことになれば最高です.

その人は, 「究極の仮想空間」を対象に「科学」できる人なわけですが, 「究極の仮想空間」の部分として, 自然界や実社会のモデル空間が存在しているので, 結果的にその人の研究成果が実用的な問題にも適用できるという仕組みなのですが...

[0361] 渡辺 その意見に同感です.

私も根上さんの「一流の計算機科学者」に対する認識に全面的に同意します. 私の説明はあまりにもボトムアップでしたね.

[0366] 松井 私は工学的なのだなぁ.

ううむ,これは私のやっている事とは違うな. 自分が工学をやっているって事を,良く理解しました.

[0359-2] 根上 やはり寄り合い所帯の上に立つ人々がいなくては.

「多声的」(初めて聞く単語です)や「多元的」という形容は, 現状のCSよく表しているのでしょうが, それは悪くいえば「寄り合い所帯」ということですよね. 新しい基礎科学が生まれる前段階として, カオス的になっているのであって, その状態を正当化すべきではないと思います.

私たちが結論したいのは, 「CSは基礎科学だ」ではなくて,「CSから基礎科学が生まれる」です.

もちろん, いろいろな分野の人が「コンピュータ」というキーワードで ネットワークを作っていくこと自体は歓迎です. でも, それ自体を「基礎科学」とは呼びたくありません. そのネットワークを高い位置から見て研究するというよりも, その上空に浮いていて, さらに天を見上げて研究している人間が私のイメージする計算機科学者像です.

[0367] 松井 数学はその対極の「仲よしクラブ」でしょうか.

「寄り合い所帯」ですか. 同じような雰囲気でいうと, 数学はその対極にいる「仲良しクラブ」でしょうか.

[0371] 根上

「仲良しクラブ」って何ですか?

[0372] 松井 CSは「寄り合い所帯」でありつづけるのが本質なのでは?

「寄り合い所帯」も「仲良しクラブ」も悪口です.

「寄り合い所帯」は, いろんな興味や知識を持っている人が, 一つの学問の名前の元に集まっている状態です. 新しく生まれた学問や境界領域学問と呼ばれるものは, こういう状態にある事が多いです.

「仲良しクラブ」は, 知識や興味を同じにする人が, 一つのの学問の名前の元に集まっている状態です. 古くからある学問や, 高度な知識を必要とする学問は,こういう状態にあることが多いです.

で,CSと数学を比べると,

仲良しクラブ ← 数学・・・CS → 寄り合い所帯

という位置に落ち着くのではないかと思っているということです.

そう思う理由は, CSの研究者は計算機を通していろいろな分野と接する機会がどうしても多いからです. 逆に様々な分野の人がCSの分野にちょっとだけ入り込むという機会も多く, そのような人達を常に抱えている「寄り合い所帯」の状況はずっと続くと思うのです.

[0373] 根上 そうするとCSの対象をじっーと見つめて, すばらしいことを発見するような天才は期待できないですよ.

なるほど.

私の思うCSは「究極の仮想空間」を研究対象とする基礎科学でした. その「究極の仮想空間」というのは, 「人間がやりたいこと全体」と思ってもいいでしょう.

そう思うことにすると, その時代時代に「コンピュータを使ってこんなことができるぞ」 という「気づき」を得た人が, CSに参画することになるでしょう. ある部分は抽象化されて基礎科学に昇格するのでしょうが, そういう人の参画がいるの時代でも期待されるので, CSは「寄り合い所帯」でありつづけるという考え方にも一理あると思います.

でも,それを全面的に認めてしまうと, CSのの「天才」というのが排除されてしまいますね.

数学だったら, 純粋に数学のことしか関心がない天才というのが成立するでしょう. でも,寄り合い所帯であるかぎり, 万人に共通の感覚で「この人は計算機科学の天才だ」と呼ばれる人は存在できないように思います.

12.3.根上氏の野望 vs 渡辺の大計画

[0374] 根上 そこで私の野望です. CSを数学に取り込むのです. 結局,同じようなことをしていると思うのです.

でだ.

そろそろこの鼎談も終結に向かっているので, 私の野望を登場させることにします. その野望というのは

コンピュータ・サイエンスを数学に取り込む

というものです.

松井さんが言っているように, そして私が同意したように, CSはその性格から, いつの時代でも「寄り合い所帯」的な側面が消えることはないのでしょう. でも, その側面しかないのだとすると基礎科学にはなりえないというのが私の考えでした.

逆にいうと, 寄り合い所帯である状態を より高い所から見られる天才(普通の人でもよい)が現れて, 抽象的な議論を展開してくれれば, その部分をCSの基礎科学的な部分と思うことができます. この考えは珍しく渡辺さんも賛成してくれたところだと思います.

でも,その天才というのは, 私の目には数学の天才のように思うのです. 渡辺さんがいろいろと紹介してくれた事例の中で, 私が基礎科学的だと思うものは,どれも数学的だったと思います.

多少,攻撃的に, 「計算機科学者が得意とするとは論理的な演繹だけなのか?」 と問い続けていましたが, それってやはり数学者が得意とするところですよね.

世間的には, 数学者といえば「数式を計算しているだけ」というイメージが定着しているかもしれません. でも, 分野によってはあまり複雑な数式など出てこない論文がたくさん書かれています.

少なくとも, 私は数式だけでは解明できない現象を発見して証明してみせる, というのがモットーです. そういう私の態度を見て, それができないから数式で計算せざるをえないのだ, と好意的に受け止めてくれる数学者もいれば, 数式が出てこないからきっと陳腐な数学なんだ, と思い込んでいる数学者もいます.

いずれにせよ, 長い数学の歴史の流れの中で, その時代ごとに,また,地域ごとに,「数学」と呼ばれていたものは異なっていたと思います. そして, 20世紀が終わろうとしているどん詰まりになって, 数学自体が新たな様相を見せ始めたのではないでしょうか. 正確にはとっくに始まってはいたのだけれど, やっと世間もそれに気づきだしてきた,というべきでしょう.

いま思えば, 20年くらい前, 私がグラフ理論を始めた頃, グラフ理論は「体系的でなくパズルのような陳腐な数学だ」と非難されており, 「数学者として手を出すべきではない」という高名な数学者もいたのでした. でも,今となっては,こんなことを言う人の方が恥をかく時代になりました.

素人向けに紹介される部分が昔ながらのパズル的なのは仕方がないとしても, それだけを見て, 専門家の活動を知らずに非難している方が見識不足だと思われてしまうです.

多少長くはなりましたが, 「CSの基礎科学的部分は,変質した新しい数学のうちである」 というのが私の主張です.

いかがでしょうか?

[0377] 渡辺 それに対し, 私は「数学二文化(二分化)計画」をぶち上げましょう. その一つにならCSが入ってもいいでしょう.

根上さん,いよいよ出ましたね.

私も鼎談最終章に向けて, 根上さんがされた大胆な提案 「計算機科学を数学に取りこむ計画」について集中します.

それに対し, 私は「数学二文化(二分化)計画」をぶち上げましょう.

趣旨: 数学には実は二つの文化が内在している. 自然科学の基礎としての数学と, 人工物(自然数,グラフ,言語)に対する数学である. というより, つい最近までは自然科学の基礎としての数学しか, まともな数学ではなかった. しかし, 人間の進化により(たとえば,コンピュータが発明されたことにより), 後者の数学もまともな数学に育ちつつある.
 同じ数学といっても, この両者は文化的にかなり違ったものを持っている (技術的には共通する部分も多いが). この際, その違いを明確にするために, 数学を二つに割ることを提案する.

いかがでしょうか? その一方にCSが組み込まれるのならば,大賛成ですが.

このときは, 根上氏の「究極の仮想空間」論に影響されていて, CS中でも仮想空間上で議論できる部分 (たとえばアルゴリズムなど) だけにしか目がいってませんでした. 後で, それではイカンと, この「大賛成」は撤回することになります.

[0378] 根上 なるほどね. でも,それは間違った数学観に基づくものですよ.

なるほどね.

でも,渡辺さんの思うところの「数学」は, 私の思うところ,もしくは,数学者が思うところの「数学」とは食い違うと思います.

渡辺さんの数学二分説を私流に翻訳し直すと, 「数学を使う人」と「数学を創る人」の分離だと思います. もちろん, 前者は「自然科学の基礎としての数学」に対応します.

それを数学と思っている人の数が圧倒的に多いので, それを数学と呼ぶ習慣にはなっていますが, 数学が作られていった歴史の中には, そういう数学とは別の精神が流れていたと思います.

2次方程式や3次方程式ならば実用的でしょうが, 4次方程式や5次方程式の解法に興味をもつことは, 自然科学の基礎を創ろうという精神とは別のものだと思います.

また,円周率を何桁も求めようとする行為だって, 自然科学の基礎とは言い難いと思います. 自然科学に役立つというよりも, 人間の存在証明のような行為だと思います.

こういう実用を無視した数学は, ここ近年のことではなく, 今日のような数学の表記方法や形式化が整うよりもずっと以前から行われてきていることです. その精神は「数学を使う人」の心とはまったく違うものです.

そういう精神の存在を無視して, 自然科学の基礎としての数学だけを数学と呼ぶことを正当化している多数決の原理のようなものに, 多くの数学者は辟易としています.

現在では,自然科学の基礎として求められているものとは独立に存在する数学が山ほど作られています. そういう数学こそが, 古代から脈々と受け継がれて来た数学的精神に支えられた数学本来の姿でなのです.

こういうことを主張したところで, それは「私が思っているところの数学」でしかない, 多くの人はそう思っていない,という反論が返ってくることが多いとは思います. でも,それは多数決の原理に基づく反論でしかなく, 真実の姿を見ている人が少ないというだけのことだと思っています.

私が期待しいる数学の変容, 正確には多くの人たちの数学観の変容は, 自然科学の基礎かどうかとは独立な数学的精神への「気づき」です. その「気づき」のもとでCSを見ると, 数学と同じ精神が流れていることが理解できて, 数学に見えてくるというわけです.

上で「正確には」と強調しているのは, 決して数学自体が変容するわけではないからです. 学問として表現された数学の見掛けは時代とともに変化するでしょうが, そこに流れている数学の精神は不変です.

こういる理解のもとでは, 渡辺さんの数学二分化計画は, 歪められた数学観を肯定して一つの部分として容認する計画なので, もろ手を挙げては賛成できません.

[0379] 松井 いま話しているのは「基礎科学としてのCS」ですよね.

大胆な計画が持ち上がってますね. 私の持つCSのイメージは, 「数学の分野が拡大・分離してできるもの」とは違います. この計画の議論は「基礎科学としてのCS」という前提で進めてくださいね.

この松井氏のコメントで「どうもマズイなぁ」と思いはじめました. CSを基礎と応用に分離しては...

[0380] 根上 もちろん. 「究極の仮想空間を対象とする基礎科学」といった場合には, 数学からはみ出る部分もありえますが.

もち.

私もCSがすべて数学の中に取り込まれてしまうとは思っていません. 渡辺さんがよく「計算」というキーワードで語ろうとしている部分は, 私がいうところの「数学」と数学を使う人がいうところの 「数学」の内に取り込まれてしまうと思っているだけです.

人間がしたいこと全体を象徴する「究極の仮想空間」を対象とする基礎科学という観点でCSをみれば, それは「数学」の発展形でもなく数学のうちでもありません. でも, 以前「そこまでCSを高めなくてもよいのでは」という指摘があったので, 上では,この部分に言及しなかっただけです.

[0381] 渡辺 そのはみ出る部分は何ですか?気になります.

根上さんの最後のコメントが気になります. 「数学のうちに入らない部分」とはどういうことでしょうか?

私も根上さんの言われるCSの部分は数学(根上流,真の数学)に含まれるというのに, 半分,同意しかかったのです. でも,ちょっと気になることもあります. そのこともあって, 根上さんの持っていらっしゃる「大きな像」を少し語ってもらえませんか?

12.4.松井氏のCS

[0384] 根上 その前に松井さんのCSのイメージを聞きましょう.

でも,その前に松井さんのCSのイメージについて話を聞くべきです. 松井さんの持っているイメージは, 私の,もしくは私たちの持っているものとは違うという指摘を受けたわけですが, 「違う」と言われただけでは, そのイメージが何なのか検討がつきませんからね.

[0387] 松井 データを取得し,操作し,活用するまでの 全体を捉えるための学問が欲しい, それがCS(の一部)であればなぁ,と思います.

あけまして,おめでとうございます. 我が家の計算機は 2000 年問題もクリアして稼動しています.

私の持つ「CS(計算機科学)のイメージ」ですが, 「計算機工学のイメージ」というべきだったような気もします.

この鼎談で何度も出てきたように, CSの重要な枠組みに, アルゴリズムあるいはメソッドがありますが, アルゴリズムで処理されるデータにも,私は興味があります.

物理現象における重量や速度のようなデータや, 社会現象における統計データ等のデータ, いわゆる生のデータです. そういったデータを取得し,操作し, 活用するまでの全体を捉えるための学問が必要なのではないかと思っています.

私の想像しているCSはそんな学問です. これは基礎科学としてのCSではありませんね. データの取得と結果の活用の部分が, 社会的な制約と要請を強く受ける部分であり, 他の分野との接点となる部分でしょう. 私自身はそこに興味が大分あるようです.

この鼎談を始めて, 上記のような感覚を持っている方は, 世の中の特にCSの非専門家に多いのではないかと感じるようになりました. CSの専門家でない知り合いと話す機会があると, 計算機科学者というのは「計算機」をいじっている, というイメージが殆どですね. 電気工学をやっていると言うと, 「じゃあテレビが直せるの?」と言われるようなものでしょうか.

「基礎科学としてのCS」というイメージを伝えたい場合には, 結局, 「数学(みたいなこと)」と答えるのば一番無難でしょう. それが専門家でない人に一番近いイメージを与えるように思います.

このコメントで「イカン!」とはっきり気づきました. CSを基礎と応用に分離してはイカンと.

[0388] 根上 でも,基礎科学の部分は「数学」ということでは, 同意が得られたのでは?

なるほど,なるほど.

松井さんの最後の台詞からもわかるように, 結局,CSの基礎的な部分というのは「数学みたいなもの」なわけですね.

計算機科学者,数学者,応用数学者(といっていいですか?),と三者の立場は違いますが, 「CSの基礎的な部分は数学のようなもの」という点は共通理解のようですね.

[0389] 根上 究極の仮想空間の研究について,少し述べましょう.

ところで,私は,以前,皆さんの指摘に応じて, CSを近未来的なところに限定して議論することにしていたのでした. だから,渡辺さんが聞きたがってる数学からはみ出た部分については, あまり語りたくありません. でも,渡辺さんが是非にというので,ちょっとだけ述べます.

たとえば, 計算機がもっと発達して,CSも十分に発達していくと, 計算機によって切り出される「究極の仮想空間」の断面としての仮想空間では, 私たちの想像を超えたマクロな現象が現れるのではないかと思っています. 仮に, その仮想空間を成立させるルールが明示的に与えられているとはいえ, その現象をシンタクティックに理解することが実質的には不可能で, 与えられたルールとは別の原理を探求して, その現象を理解したほうがよいとうことが起こるのではないでしょうか?

よく「これこれは事実上計算不可能である」といった定理を耳にします. 角の三等分は原理的にできないというとは違って, 計算でそれを決定しようとしても, 極めて困難で事実上決定不可能であるといった意味の定理だと思います.

たとえば,かなり専門的になってしまいますが, 「任意のグラフの族に対して極小マイナーは有限個である」という定理があります. この3人が知っている例だと(読者のみなさん,すいません), 非平面的グラフの族の極小マイナーは K_5 と K_{3,3} の2個だけです. Robertson と Seymour のグラフ・マイナーという理論を用いると, これと似た現象が一般的に成立するという大定理が証明できます. その一方で, 「その有限個の極小マイナーは事実上計算不可能である」 という定理も知られています. (確か Mike Fellows の定理だったと思います.)

この2つの定理が意味するところは, 計算という観点だけでは理解できないが, 正しいことがわかる現象が存在するということです. となれば, その現象は計算や与えられたルールとは別の原理によって理解されているわけです.

この例は数学の例なので数学からはみ出す部分の例になっていませんが, 究極の仮想空間における森羅万象の中には, 明示的なルールの積み上げでは事実上到達不可能で, 他の原理や法則の存在を明らかにすることで理解できるマクロな現象があるのではないかと思います.

そういう現象を探求する研究は, 自然科学の探求と似ているところがあって, 純粋な数学とは異なる精神で遂行されるものです.

まあ,映画「マトリクス」の仮想世界をイメージして, この話を考えると理解できるかもしれません. 反対に,単なる空想的な夢物語を語っていると誤解されてしまうかもしれませんが...

いずれにせよ,上の私の話には深入りせずに,話をまとめる方向で書き込んでいきましょう.

12.5.最終章へ向けて

[0391] 根上 まとめに入りましょう.

まず,私がこの鼎談を通じて,大事だったと思うことは, 「基礎科学」とは何なのかを規定せずに話を始めたことです.

「新しい基礎科学は生まれるか」というテーマだと, まず「基礎科学」とは何なのか定義しないと話が始まらないと懸念していた人も少なくないと思います. でもそれをあえてせずに, それぞれが好きなことを言い合う中で, 私たちが「基礎科学」に何を期待しているかが, しだいに明らかになっていったと思います. これはいいことです.

[0392] 渡辺 「CSの基礎科学的な部分は数学」に落ち着きそうですが, 最後にもう一度,問いかけさせてください.

私も同感です. 「基礎科学とは何ぞや」ということも議論せずにスタートしてしまったという無謀な試みでした. 幸い,議論の中で大分明らかになってきたようには思います.

ただ, 「コンピュータ・サイエンスの基礎科学的な部分は結局,ある種の数学である」 という議論に落ち着きそうなので, 本当にそれでよいかについて, ここでもう一度,問いかけさせてください.

私自身も,一時は,それでよいかなぁ,と思いました. でも,松井さんのコメントなどを読みながらつらつら考えてみると, それでは何でそもそも 「コンピュータ・サイエンスは新しい基礎科学である」と言い出したのか, その意義が薄れてしまうのではないかと反省するようになりました.

たとえば 2000 年問題があります. さすがにこの問題を「数学」という人はいないと思いますが, 情報工学か?CSか?と言われたら, 多くの人がそうだと答えるのではないでしょうか. しかも, その反応は正しいと思うのです. コンピュータ・サイエンスは, たとえ基礎であっても, そういった工学的なこと, 応用に即したことから分離できない, 分離してはいけないのではないか,と思うのです. だからこそ「新しい基礎科学」だと言い出したようなところがあります.

それと対照的なのは原発の臨界事故です. さる高名な物理学者が, 今回が本当に物理的は原発の事故である,とおっしゃっていました. でも, この原発の事故の原因は物理的な問題であるとはだれも思いません. 人為的な問題ですよね. それに対し 2000 年問題はどうでしょう. これも単なる人為的な問題と見てもいいはずです. 担当者が処理をさぼっただけのことですから. でも, 誰もが「これはコンピュータ関係の問題だ」 (さすがにサイエンスとまでは言う人はいないかもしれませんが)というでしょう.

この鼎談のはじめのころ, 「何でもかんでもコンピュータ・サイエンスと思われてしまう」と嘆きましたが, 実は,それもコンピュータ・サイエンスの大きな特徴なのではないかと反省しているのです. そういった面を完全に分離して基礎科学を議論するのでは, 私が考えていた「新しい基礎科学」とは離れて行ってしまうのではないかと思ったのです.

[0394] 根上 CSには, 単に数学的な部分だけではなく, 不可分な何かがあるということですね. その数学からはみ出た部分が何かをいろいろと議論してきたのかな.

コンピュータ・サイエンスには, 単に数学的な部分だけではなく,それと不可分な何かがあって, 初めてコンピュータ・サイエンスだというわけですね.

その考え方は, 松井さんの「社会的要請からは切り離せない」という主張に通じるものがありますね.

また, 私のビジョンの中にも, 人とともにある究極の仮想空間という概念を持ち出して, 数学からはみ出る形での基礎科学のあり方を語りました.

その数学からはみ出た部分というのが, 人それぞれの観点で,いろいろだったわけですね.

[0397] 根上 また, 基礎科学は人間の世界を認識する機能に対応するのかもしれません. 数学は人間の数理的能力に, 自然科学なら人間の法則を発見する能力に. すると, CSは人間の手続き的処理能力に対応しているのでしょうか.

この鼎談の中で「世界を記述するメソッド」という捉え方も出てきていたと思います. 私はこのフレーズが結構気に入っています.

「世界を記述する」の主語は何かというと, それは当然,人間です. 人間の知性というフィルターを通して世界を眺めて, そこに見えてきたものを記述するわけです.

そう思うと, いろいろな基礎科学は 人間の世界を認識する機能に対応して存在している考えられます. そのように基礎科学を見てみるのもよいかもしれません.

たとえば, 数学は人間の数理的能力に対応しているわけだし. 自然科学なら人間の法則を発見する能力に対応していそうだし. CS(あくまでCSから生まれるであろう近未来的な基礎科学を指します)となると, 人間の手続き的処理能力に対応しているとでも言えばよいのでしょうか.

もちろん, 人間には大昔から手続き的な処理能力はあったわけだけれど, 人間というマシンで実行できる手続きが小規模だったので, それに対応する基礎科学が意識されずにいた. ところが, コンピュータの登場によってそれが顕在化してきた, と言えるかもしれませんね.

[0398] 渡辺 数学や物理が理解する能力に対応し, CSは操作という能動的な能力に対応するとも言えますよね.

手続き的処理能力に対応する,という考え方はおもしろいですね.

もう少し付け加えさせてもらえれば, 数学も自然科学も「理解」に関する能力ですよね. どちらかというと受身的なものです. それに対し, 手続き的能力というのは能動的です. つまり, 「世界を認識する能力」といっても, CSの場合には,かなり能動的な部分に関連してきますね.

つねずね,「CSは量との勝負」といってきましたが, これも能動的な側面から出てくるのだと思います. 道具や機械そしてコンピュータなどが向上すればするほど, 人間の処理能力(あるいは処理能力欲望)はますます増大し, ますます複雑なことを処理したくなるのです.

[0400] 根上 その手続き的処理に対応する部分が, その枠組みを越えて動き出すと, 本当に新しい基礎科学が出てくのではないでしょうか?

近未来的には, 人間の手続き的能力の対応して存在する基礎科学というのが落しどころですね.

私は, 当初は人間の手続き的処理に対応して生まれたCSだけれど, いずれコンピュータが見せてくれる世界がその枠組みを超えて動きだす. その瞬間から, 私が思うところの数学とは違う新しい基礎科学が動き出すと思っています.

でも,この予言が成就するのはずーっと未来のことでしょう.

以上, まとめらしい見解がでたところで, 鼎談の総集編は終わりにします. ちょっと, 尻切れトンボの感じですが, あえて結論を出す種類の議論ではないのです.
 ところで全部読まれた方いますか? ご苦労様でした!

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