Web 鼎談:コンピュータ・サイエンスは21世紀の基礎科学になるか?

総集編 No.4

7月の鼎談

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4.1.「計算」を解明することの難しさ

6月の鼎談から
「どのくらい効率良くできないか?」という問いは重要です. 「計算」について議論するときの出発点になるでしょう. それはまた, アルゴリズムのよさを議論するときの尺度としても必要ですね.

[0052] 渡辺 でも計算の限界については未解決なことばかりです. 真の評価基準に使うなんてまだまだ.

確かにその通り!と胸を張って言いたいところです. でも,悲しいかな,「計算」の研究はそこまで言っていません. 物の真の価値を示せるほど, それに十分な評価基準を得るには至っていないのです.

たとえば,2 つの整数の掛け算という単純な「計算」を考えてみましょう.

どんな優秀なコンピュータでも, 1 回の演算でできる掛け算は, 有限の桁数の掛け算です.(大抵の場合,10 桁程度でしょうか.) もちろん, こうした有限桁の掛け算でも, それを組み合わせれば, 任意の n 桁の掛け算が可能です. ただ,計算は,当然,かける数の桁数 n に応じて難しくなるはずです. どのくらい難しくなるでしょうか?

筆算を考えてみて下さい. あれは,単純な足し算と掛け算(つまり,一桁の数の乗加算)で任意の n 桁の積を計算する方法です. この筆算で計算しようとすると,n**2(n の 2 乗)に比例した回数の演算が必要になります. そうすると何となく, 「n 桁の掛け算には n**2 の基本演算が必要」といった気になります. 「そんなの当然!」とも思うかもしれません.

ところがどっこい! 実は n 桁の掛け算をするのに n(log n)(loglog n) 程度の基本演算ですむ方法があるのです. (Schnorr の高速フーリエ変換法といいます.) このように, 掛け算といった単純な「計算」でさえも, 我々の予想を覆すような方法があるのです.

ですから, たとえば誰しも「掛け算には n(log n) 回の基本演算は必要」と思っていますが, やはり証明をするまでは, それが本当の限界とはいえないのです.

そしてはなはだ残念なことに, どうしても 10n 回以上の演算が必要だ,ということさえ証明できていないのが現状です. さらに, このことは,我々が日常直面している(ほとんど)すべての問題に対してもいえることなのです.

だから,コンピュータ・サイエンスが「計算」の真の価値を示してくれるか, というと,残念ながら,現在のところはそこまで至っていないのです.

[0054] 渡辺 「計算」の解析が難しいのは,それが人工物だからなのです.

でも,どうしてそんな単純なことの証明が難しいのでしょうか?

私は,「計算」が対象としているのが人工物だからではないか,と思っています. それに対して,従来の物理,そしてその基礎となる数学は, 自然物を扱ってきたのではないでしょうか?

もちろん,数学にも「計算」という人工物を扱う要素もあります. でも,それは数学ではなく, 「算術」という一段低いレベルのものとみなされてきたような気がします. どうでしょう?

[0056] 根上 たしかに 10 進法で計算するのは人間の都合ですよね.

「計算」を人工物と捉える考え方は,私にもわからないでありません. たとえば, 数の演算という概念は人間とは独立に存在しています. この存在を「自然物」と捉えるならば, 10 進法で掛け算をするというのは, 人間の都合で生まれた「人工物」でしょう.

そういう意味ではないのですか,渡辺さん?

[0057] 根上 でも数学的存在を「自然物」と形容するのには反対です. それは「自然」を超えた存在だと思います.

でも,数学的存在を「自然物」という言葉で形容するのは,ちょっと私の気持ちには反します. 数学的な存在は,「自然」を超えた存在ですからね.

[0058] 渡辺 いえ,自然物といったのは「数学的存在」ではなく「数学の対象」です.

計算が人工物だ,ということについては,根上さんの言われたようなことを考えていました.

一方,数学的存在が自然物なのではなく, 数学の対象が自然物だった(である)と言いたかったのです.

[0059] 根上 「計算=人工物」について,もっと具体的に話をしませんか?

「だった」と「である」を併記しているところを見ると, 渡辺さんも,数学の対象を自然物に限定するのは,まずいかもしれないと思っているようですね. それならば,よしよし.

いずれにせよ, 「計算」を人が作ったものだという捉え方は, 私も重要だと思います. そろそろ松井さんが納得する具体的な話をしてあげましょう.

4.2.計算=人工物,そこに計算の難しさがある

[0060] 渡辺 自然は素直です.一方,「何でもあり」の人工物は捉えどころがないのです.

「だった」というのは,歴史を意識していたからです. 数学の発祥は,やはり幾何学からではないでしょうか. これは,目に見える図形の研究から始まったわけで, 自然を対象とした研究からスタートした, と考えてよいでしょう.

自然は結構素直です. (本当は「素直でした」というべきかな. 現在の科学が対象としている自然は,「素直でない」のも多いですからね.)

素直だから直観が働きます. たとえば,初等幾何を考えてみましょう. 「二等辺三角形の底辺を見る頂点から,底辺の中点へ引いた直線は底辺に垂直に交わる」 という事実は, 図形をいくつか描いてみればわかりますよね. 直観できます.

それに対し人工物は「何でもあり」の世界です. だから,t(1)=1, t(2)=2, t(3)=3 ときても, t(4) は何になるかわかりません. 非常に大雑把な話ですが, そこに難しさがあると思うのです.

[0062] 根上 「何でもあり」の世界は数学の方です.

もうちょっとこだわらせて下さい.

渡辺さんの揚足を取るようで申し訳ないけれど, 「何でもあり」の世界は数学の方です. 数学的原理を無視しないかぎり,何をしても許されます.

一方, 「計算」の方は, 「何でもあり」なのではなくて, 「これしかないけど...」という感じですよ. これしかないけど,どこまでできるかを考えるのではないですか?

たとえば,日本にはちゃんと法律があるのに, 法律なんか守らないで,「何でもあり」の連中が,むちゃくちゃな事件を起こす. その事件をテレビで報道する.

これを「何でもあり」の数学的な世界とそれを表現した「数学」という学問だと思ってください. あえていうなら, 「法律」が自然界を支配している「物理法則」です. 数学の世界には,物理法則なんか,おかまいなしのものがたくさんあるのです.

すると,「テレビ」という人工物の存在が気になってくる. 私の家では新聞をとっていないので, 世の中で起こっていることを知る手段はテレビだけなんだけど... でも,テレビって,どこまで真実を使えているのだろうか? そういう疑問がわいてくる.

つまり,ここでいう「テレビ」というメディアが, コンピュータ・サイエンスの「計算」に相当するわけです. 「何でもあり」の無法地帯に対して, 人工物であるテレビが何を見せてくれるのか? もしくは見せてくれないのか? こうい疑問に答えるのが, 渡辺さんがいうところのコンピュータ・サイエンなのではないですか.

[0064] 渡辺 数学は本当に「何でもあり」でしょうか? やはり分野ごとの土俵がありませんか?

つまり,有限の手段の組み合わせだけで世界がどれくらい表せるか?というテーマですね. 確かに,それもコンピュータ・サイエンスの一つです. この話も重要なのですが,話しが発散してしまうので, 前の話に区切りをつけさせてください.

この話題については 8月の鼎談の []あたりで戻ってきます.

確かに数学でも原理的には「何でもあり」です. でも,本当に「何でもあり」の土俵の上で議論している分野があるでしょうか? 陽,陰を問わず, 数学の各分野には土俵というものがあって, その上で,何らかの構造を見出して議論しいるように思います.

計算の場合,その構造が見えにくいのです.

ひとつ,たとえ話をしましょう. 以前,ファジー理論で有名な先生とお話したことがあります. 「なぜ,ファジーという概念が重要なのですか?」という私の問いに対し, 「従来の式で書けないものが,式として書けるようになった」と言われました. たとえば, うんと暑い場合には,この式に従って温度を調節し, 中くらいの場合には,別の式. もっと寒いときには,別の式,といったように, 一つの式で書き表せないことも,ファジーの枠組みならば,まずは表現できる,というわけです. でも,これなどは,我々,コンピュータ・サイエンティストからすれば, しごく当たり前のことです. 条件文を使ってつなぎ合わせれば, 一つの式(プログラム)になるのですから.

この強力な表現能力は「計算」の強みです. でも逆に, 何でもかんでも「式」にできてしまうので, 今度は,式にしても, その構造が見えないという問題がでてきてしまうのです.

4.3.「計算」には構造がない!?

[0066] 根上 う〜ん.それなら,CSは場当たり的な学問でしかないのでは?

「何でもあり」というよりも, 何も構造がないから「何が起こるかわからない」ということとですね.

それなら, コンピュータ・サイエンスって,場当たり的に事に臨むしかないのですか? (そうでないことを祈る...)

見ようによっては, 素数判定の Miller-Rabin test とやらも, 場当たり的な解法と言えなくもないなぁ. (悪口ばかりでごめんね.)

[0067] 渡辺 ある意味ではそうなのです. でも,だからといって基礎科学には値しない訳ではないと思うのです.

いえいえ,そこなんです!!

もちろん,部分部分では,「構造らしきもの」が見えています. 実際,私がずっとやってきたのも「構造的計算量理論」と総称されるもので, 何とか難しさの構造を見ようと努力してきました. そうした結果,確かに構造らしきものが見えることもあります. でも,しばらくたつと,それも表層的ではないか,本質をまだまだとらえていないのではないか, と思うようになってしまうのです.

そんなことを繰り返すうちに, いわゆる数学者の好むような構造がないのかもしれない,という気になってきたのです.

そうした構造が見えない(あるいはない)ものを対象とする科学が, 基礎科学になりえるのでしょうか? 私は「なりえる」と思うのです. というのも非常に多くの分野の基礎となり, 人間の考え方や物の見方に大きく影響を与える可能性があるからです.

[0070] 松井

なるほど!だいぶ話が見えた気がします. 「構造が見えない(見えにくい)」というのはCSの対象とする問題の大きな特徴であり, それを扱うコンピュータ・サイエンスに(何らかの)特色を与えているということですね.

==> 8月の鼎談へと続く


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