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鼎談 1月号

[0197]根上 生也 1999-08-18 (Wed) 17:09:16

まず,[0195]について.

渡辺さんが数学について語ってくれたことは,そのとおりだと思います.私がそれと違うことを言っていると思っているのですか?[0190]の私の発言をよく読み返してください.

数学の場合,「数理的原理」vs「学問としての数学」という対立構造があると述べましたが,前者が渡辺さんが「もっと神秘的な真理」と表現してくれた部分で,後者が「議論をする土台として公理を持ち出して...」の部分ですよ.

でも,前者に関しては明文化されることはほとんどないので,その部分を無視して,後者の部分だけを多少矮小化して表現すれば,「ルールを決めて世界を探求する」ということになるのです.

まあ,この議論は,渡辺さんの誤解だとして,聞き流しておいていいですよ.

一方,対立構造の話はちょっと大事です.この対立構造は,「実在」vs「探求の方法」という構図になっています.私は,計算機科学においても,この構図はあると思うのですが.

渡辺さんは,計算機科学が扱う世界が複数あることを根拠に,「実在」の存在を否定して,私の言っている対立構造を否定しようという論法なのですか?

いずれにせよ,私は,計算機科学においても,真の世界は1つのような気がするのですが.

それは,最近私が勝手に使っているコンピュータ・ワールドというやつです.それは,現存のコンピュータのディスプレイの中で展開されている具体的な世界というよりも,究極的な仮想空間のようなものです.それがどういう姿なのかは,今の私たちにはわからないので,いろいろと研究をしている.それが計算機科学なのではないでしょうか.

渡辺さんが言われたプログラム言語を国の法律にたとえた比喩はたいへんわかりやすいと思います.でも,究極の仮想空間,もしくはそこで起こることを表現するために,いろいろな人が研究した結果として,いろいろな言語が登場してきたのだと捉えることもできます.

世界はひとつだけれど,いろいろな言葉を話す人がいるというのはおかしな構図ではありません.
[0198]渡辺 治 1999-08-19 (Thu) 12:07:30

>渡辺さんが数学について語ってくれたことは,そのとおりだと思います.
>私がそれと違うことを言っていると思っているのですか?

いや,確認したかったのです.

>[0190]の私の発言をよく読み返してください.

まあ,そうおっしゃらずに,もう少し確認させてください.

根上さんは,

>数学の場合,「数理的原理」vs「学問としての数学」という対立構造がある
>と述べましたが,前者が渡辺さんが「もっと神秘的な真理」と表現してくれ
>た部分で,後者が「議論をする土台として公理を持ち出して...」の部分ですよ.

と言われましたが,

>たとえば,群論なら,群の公理から出発して,見えてくる世界を探究してい
>るわけです.

とも言いましたよね.その場合,群論には「数学的原理」はないのでしょうか?つまり,群の公理だけがすべてで,それから出てくる世界のみを探求しているのであれば,それに書き表されていない神秘的な真理は,ないわけですよね.
[0199]根上 生也 1999-08-20 (Fri) 15:48:48
群論についての記述は,「矮小化すると」というおまけ付きで捉えてください.

以前述べたように,群の公理を選定する段階があるわけですが,そのときにはまだ「ルールを決めて」が成り立つ以前の話なのだから,論理演算だけでは,ことが動きません.幾何学や代数学などの要請もあるでしょうが,もっと前学問的な直観のようなものをたよりに,うごめいている期間があったと思います.これが歴史的な事実かどうかは,私には断定できませんが,比喩として成立する話でしょう.

また,これも以前言いましたが,「ルールを決めて」からでも,数学者の多くは論理の暗算だけではなくて,多少神秘的な直観にたよって考察していると思います.(計算機科学者は論理の暗算だけなんですよね.)

いずれの場合も,数学者の直観が「数学的原理」に触れる唯一の方法(唯一性は,言葉の勢いで言っているだけです)です.その部分はあまり公言されることがないので,素人目には,「ルールを決めて」から,計算したり,論理的に演繹したりしすることが「数学」に見えてしまうのではないでしょうか.

というわけで,公言されない部分を切り捨てて(=「矮小化して),表現すると,「数学だって,ルールを決めて,世界を探求している」という台詞になるわけです.

群論の教科書に書かれている公理的な記述だけ見ていると,そういう表現も当たっている感じもしますが,その表現の背後に存在している「数学的原理」の方が大切です.表現はそれに触れるためのヒントです.そのヒントから「数学的原理」を感じるのが難しいから,数学は難しいと思われるのでしょう.

(もう少し詳しい説明をするためには,今問題にしている対立構造では不十分です.拙著『第三の理』に書かれている三元論が必要なですが,そのうち,話します.)

渡辺さん,答えになりましたか?
[0200]根上 生也 1999-08-20 (Fri) 15:55:03

ちょっと意地悪的に言うと,渡辺さんの主張を上で述べた言葉で表現すると,「計算機科学は数学を矮小化したようなもの」ということになってしまいます.

数学者は直観と論理を使うけれど,計算機科学者は論理だけ.

数学では「ルールを決めて...」だけでは表現できない部分があるけれど,計算機科学は「ルールを決めて...」だけ.

初めに前置きしたように,「意地悪的に言えば」なのであって,揚足とりになっていることは承知しています.渡辺さんが表現していないことはまだまだあるでしょから,上のように断定されるのは心外でしょう.でも,このまま放っておくと,そういうことになってしまいますよ.

(悪役担当なので,こんなことを言っています.許してね.)
[0201]渡辺 治 1999-08-21 (Sat) 00:23:42

>(悪役担当なので,こんなことを言っています.許してね.)

もちろんです :-)
[0202]渡辺 治 1999-08-21 (Sat) 00:33:55

まず,[0199] の回答,ありがとうございます.私が想像していたような答えでした.ただ,数学者の考え(常識)を明らかにしておきたかったので.(これは根上さんがコンピュータ・サイエンティストの常識を明らかにしておきたいのと同じです.)

ただ,「矮小化」という表現はおもしろいですね.やはり,こういうことは陽に議論しておくべきですね.

それにしても,

>(計算機科学者は論理の暗算だけなんですよね.)

は手厳しいですね.実は,私の研究は,多くのところ数学的直観に従って進めてきたところが多いです.理論計算機科学者には,本当に論理の暗算だけで進めているような雰囲気の人もいますが(人間 Mathematica のような人も!),数学的直観が発想の元になっている人も多いはずです.とくに,私のやっているような計算量理論関連の分野ではそうです.

この意味では,かなり数学に近いわけです.ただ,おっしゃるように「ルールを決めてだけ」の部分もあります.

[0203]渡辺 治 1999-08-21 (Sat) 04:17:33

根上さんがおっしゃるように,ルールとして明文化された世界は,もっと神秘的な真理に基づく世界より,本質的に「矮小化」された世界でしかありません.端的に言えば,つまらない世界でしょう.

だからと言って,コンピュータ・サイエンス自身がつまらないものか,というとそうではないと思います.というのも,その矮小化された世界自身がコンピュータ・サイエンスなのではなく,そうした世界(無数にある)を探求する方法,あるいは,ルールによって定義する方法自体がコンピュータ・サイエンスなのです.

つまり,「群」という概念に代表される数学的真理が最も大切なことで,それを探求するのが群論であるのに対し,その探求方法が重要なのがコンピュータ・サイエンスなのです.非常に極端に言えば,探求される対象自身はどうでもよいのです.

もちろん,個々の研究者や個々の研究課題においては,対象となる世界自身の解明は非常に重要なことです.でも,コンピュータ・サイエンスとして意味があるかどうかは,また別なことなのです.
[0204]根上 生也 1999-08-22 (Sun) 10:13:09
うーむ.私にとって,二つの選択肢があるようです.

私自身は,数学と同様に,コンピュータ・サイエンスだって,真実の世界(=究極の仮想空間)とその探求方法という対立構造があると思っています.これはすでに述べた1つ目の選択肢です.

もう1つの選択肢は,渡辺さんの上の言葉を信じて,探求方法のみが意味をも持つのがコンピュータ・サイエンスなのだと思うことです.

もし後者を選択するとすると,ここままで述べられたきた方法論だけでは,あまりにも貧弱ではないでしょうか? 探求方法自体が研究の目的なのだとすると,ただ論理の暗算以上の何かがないと,数学からはみ出た新しいものが見えてきません.
[0205]渡辺 治 1999-08-23 (Mon) 01:16:57

「探求方法のみ」という言い方は極端かもしれまんが,二番目の選択肢を信じてもらうしかないと思います.

ただ,「探求方法」には,アルゴリズムの設計や計算の複雑さの解析も含まれていること,そして,ただ探求方法だけではなく,その表現方法も重要な課題であることを確認させておいてください.
[0206]渡辺 治 1999-08-23 (Mon) 01:37:45

さてその上で,敢えて質問しますが,本当に

>探求方法自体が研究の目的なのだとすると,ただ論理の暗算以上の何かがな
>いと,数学からはみ出た新しいものが見えてきません.

でしょうか?たとえば,数学では,今だかつて,日本の法体系(法律を含めて,日本が日本人が従っている規則)をどう記述すればよいか,ということが真剣に議論されたでしょうか?

法律だけを記述しても,まだ,法体系としては不充分です.法律だけでは,すべてを書ききれないからです.そのため,「解釈」が必要となり,そのために法廷で「解釈」が,しばしば論議されているわけですし,またそれは,弁護士
の重要な仕事の一つだと理解しています.(誤解があるかもしれませんが,あくまで,例ということでご勘弁を.)

その「解釈」をすべて含めて記述すれば,一応,現在の法体系の多くの部分を記述できたことになるでしょう.でも,それは,あまりに量が多すぎます.しかし,数学的に見れば,有限の場合分けの記述なのですから,原理的には可能です.つまり,数学者から見れば,これは単なる「技術論」なわけです.

コンピュータ・サイエンスでは,これを単に技術の問題とはせず,科学として探求しよう,というわけです.

では,「法体系を記述する」という課題に対して,コンピュータ・サイエンスが,どんな解答を出せるでしょうか?

まずは,書き方です.記述方法です.たとえば,この Web page のように,ハイパーリンク構造を持って書く,という新しい書き方を提案することができます.でも,いくら構造化をうまくしても,量があまりに多いと,それだけではとても手に負えない代物になってしまうでしょう.

そこで登場するのが,エキスパートシステム(専門家システム)という考え方です.簡単に言えば,これは仮想弁護士です.こうした仮想弁護士を提供することで,法体系を「記述する」という手段を提案するわけです.

では,そうした仮想弁護士をどうやって作るか?それには,データの整理方法から,そうしたデータから法則を発見する方法,使用者との対話を通して,本当に何が知りたいかを知る方法など,いろいろな問題が出てきます.こうした問題を解決するアルゴリズムを開発したり,あるいは,表現方法を考案したりすること,これは,今までの数学でやられてきたことでしょうか?
[0207]根上 生也 1999-08-23 (Mon) 06:25:37

まず,法律の例えから.

これは予断ですが,あるとき,法学の専門家(大学の先生)と話をしていたとき,似たようなことを話したことがあります.既存の法律の無矛盾性を証明するような研究はないのか,と聞いたのですが,その真意がなかなか伝わらず,がっかりしたことがあります.

でも,いろいろと話をした結果わかったことは,法律の是非を議論するのではなくて,その「解釈」を与えることで,問題を解決するところに,法学者としての技量が問われるということです.例えば,(ちょっと生々しいけど)自衛隊を合憲にするために,憲法を変えてしまうのでは,法学者としては二流で,既存の憲法の範囲で,解釈を与えて合憲にするほうが偉いというわけです.(もちろん,自衛隊を合憲とすべきか,という議論が先送りになっていますが.)

いずれにせよ,「解釈」は弁護士の仕事というのは,正しい理解だと思います.そして,「法律」と「解釈」という対は,私が言っている対立構造とも,うまくマッチする言葉です.

私がいうところの「探求の方法」が「法律」に相当していて,「ルールをきちんと書き下して議論しよう」という探求方法です.そこで記述された(表現されたとはいわないことにする)ものを「解釈」して,「数学的原理」の世界,またはイデアの世界に,記述内容をマップして,本当に表現したいものを矛盾なく記述しているかどうかを考えます.また,具体的な世界にマップして,応用するというのも,別の「解釈」です.

というわけで,「法律」と「解釈」という組み合わせはグッドですが,渡辺さんの「解釈」というのは,「法律をさらに細かく設定する」ということなのではないですか? もしくは,法律の条文には書かないけれど,別の誰か(仮想弁護士)には,その細かい条文も教えておいてあげる,とうことなのでしょうか?(好意的に解釈もできますが,確認のために,こういう質問をぶつけましょう.)
[0208]根上 生也 1999-08-23 (Mon) 06:49:53
続いて,渡辺さんからの質問に対する答えです.

まず,私は「探求方法自身」が研究対象となっていることは新しいと認定しているのですよ.でも,この言葉の「解釈」がちょっとわかりにくかったかもしれません.

アルゴリズムなりの話にすると,何か解きたい問題がある,それを探求する方法が,いろいろなアルゴリズムを開発することで,その良し悪しは,アルゴリズムの効率で評価される.

「探求方法自体」の研究というのは,アルゴリズム自体の研究ということですが,それを「いろいろなアルゴリズムの考案」と考えるのではなくて,「アルゴリズムを考案すること自体」の研究と考えてください.よく「メタ」という接頭辞を使って表されることです.

まあ,数学と,数学基礎論の関係のようなものですね.数学は,「論理的に考える」という探求方法(それだけではないけれど)を持っていますが,数学基礎論は,「論理的に考えること自体」は本当に正当なのだろうか,「論理的に考えることとはどいうことなのだろうか」と問うことで生まれる研究と捉えることができますよね.

となると,私の第二の選択肢は,アルゴリズムの良し悪しの議論ではなくて,アルゴリズムで考えること自体の正当性を考えるのが,コンピュータ・サイエンス(もしくは,そのひとつの側面)なのだということになります.

そうだとすると,数学を超えて新しいと認定してもいいです.でも,その超えたものを表現するキーワードが「論理の暗算」だけでは,貧弱だといっているのです.数学を超えているなら,誰もが知っている「論理」以外の何かがあってもいいのではないか,と期待しているのです.

私の期待に応えるようなことを,言ってほしいなぁ.
[0209]渡辺 治 1999-08-23 (Mon) 07:34:22

---
[0210]根上 生也 1999-08-25 (Wed) 14:33:39
「法律の文章・解釈・精神」というのは,私は好きだなぁ.

「法律」の喩えがどうしてよくないのか,説明してほしいです.
[0211]根上 生也 1999-08-27 (Fri) 06:42:18

---
[0212]松井 知己 1999-08-29 (Sun) 12:40:00
まずは[204]の2つの選択肢に!
なんか,いきなり煮詰まった選択肢が出てきましたね.
[0213]松井 知己 1999-08-29 (Sun) 12:43:03

法律の例え話は,私はあまり良くないと思います.
法律の文章と解釈の後ろには,法の精神という,
もっと複雑なものが控えているからです.
[0214]松井 知己 1999-08-29 (Sun) 13:21:06
法律の例えが良くないと思うのは,相違点が多い事と,
例えにするには複雑過ぎるからです.

例えば,お二人の言っているのは民主主義の法律の仕組みでしょうが,
その場合,弁護士の仕事は,「法の解釈」でなく「弁護」です.
さらに弁護士の仕事は,資本主義社会では,
ビジネスとして成り立っています.
研究者の仕事も資本主義の社会ではビジネスとして成り立ってますが,
弁護士における直接的な依頼人にあたる存在はありません.

「法律の解釈」と,「公理の解釈」についてもだいぶ違いがあります.
法律の文章は,時代背景等に捕われず法の精神を表すものであって,
数学の公理のように,
文章に反しない限りどんな解釈でもして良いわけではありません.
特に「何でもあり」という計算機科学のイメージとはかなり違うと思います.
逆に,法律の文章作成時点では無かった犯罪や状況が新たに出現したときは,
その背後にある法の精神を基に拡大して解釈適用することさえあります.

さらに重要なのは,計算機科学の大きな特色として,
その多様性(いろいろな世界や言語が同時に存在する)に関する
言及があったはずですが,
司法において最高裁判所は(基本的に)一つであり,
すべての裁判所はその下に位置しています.

>「法律」の喩えがどうしてよくないのか,説明してほしいです.
というリクエストでしたので,お答えしましたが,
単に「例え方が嫌い」というだけの意見ですので,
本論から大幅に外れる前に終わった方が良いでしょう.
[0215]松井 知己 1999-08-29 (Sun) 13:38:56

数学基礎論の話が出てきましたが,
基礎論自体が非常に計算機科学に近いものですよね.
計算不可能性の議論の源は,数学基礎論と非常に近いですよね.
逆に,時代の移り変わりとともに,
数学基礎論は数学から徐々にはみ出て,
計算機科学の中に入り込みつつあるんじゃないですか?

根上さんの「数学からはみ出ている部分は何処?」という質問ですが,
それは具体的には沢山あるんじゃないでしょうか?
例えばアルゴリズムのオーダーなんて話は,現実のところ数学会では
殆ど受け入れないんじゃないですか?
根上さんのもっている「数学」のイメージは,
現実のものよりちょっと広すぎません?

>私の期待に応えるようなことを,言ってほしいなぁ.
別に「期待に応えたくない」わけじゃないのですが.
[0216]渡辺 治 1999-08-30 (Mon) 00:48:39

松井さんは

>まずは[204]の2つの選択肢に!
>なんか,いきなり煮詰まった選択肢が出てきましたね.

といわれますが,それだけ議論が煮詰まってきたのではないかと思います.それとも読者には,まだ唐突な感じに映るでしょうか?
[0217]渡辺 治 1999-08-30 (Mon) 00:53:42

>法律の例え話は,私はあまり良くないと思います.法律の文章と解釈の
>後ろには,法の精神という,もっと複雑なものが控えているからです.

なるほど.パンドラの箱を空けてしまったのかもしれません.でも,解釈とし単純に書ききれないものがあるからこそ,それをどう料理するかは,コンピュータ・サイエンス的にみておもしろいと思います.

ただ,私は法律のことは不勉強なので,弁護士のように,よく知っている人からすると,意味のない,おかしな発言をすることになりそうですね.その意味では,危険な題材であることは確かです.
[0218]松井 知己 1999-08-31 (Tue) 04:20:48

私がお休みしてた間の会話をあらためて,読みなおしました.
そうですね,そろそろ煮詰まってきたのですね.

確認したいのですが,
「「探求方法」の研究」と渡辺さんがおっしゃっているのを,
根上さんが「「メタ」な研究と呼ばれるもの」と形容されているのは,
渡辺さんから見て正しい形容なのですね .
[0219]渡辺 治 1999-09-01 (Wed) 02:33:01

はい,そうです.片仮名を使いたくなかったので :-)

もし片仮名を使うのならば,メソドロジーの研究ともいえます.これは,アルゴリズムも当然入りますが,表現方法も含みます.一方,物理や数学は,対象に興味があるので,ドメインサイエンスなどとも呼ばれています.もちろん,計算機科学でも,メソドロジーを対象とすれば,それに関するドメインサイエンスなのですが.ああ,とうとう禁断の片仮名を使ってしまった...
[0220]根上 生也 1999-09-01 (Wed) 09:34:22
まあ,そう嘆かないで.
カタカナを使ったおかげで,少しは威厳が出てきた感じがしますよ.

でも,それをもう一度日本語に直すと「方法論」ですよね.日常会話(正しくは,研究者どうしの日常会話)で「方法論」と言ってしまうと,なんだか低レベルな感じにも思えてしまいます.「よく,それは単なる方法論だからね...」などといって,やっていることを批判することがあるでしょう.

数学の場合だったら,高校までで習う数学は「方法論」でしかない(渡辺さんの意図していることと異なることを前提にして,カタカナでは書かないことにします).真理に触れたり,概念を理解したりすることが重要なのであって,公式運用術に執着している段階は,まだまだだとよく言われるわけです(正確には,私がよく言っている).

渡辺さんの言っている「メソドロジー」はそういう低レベルのことではないですよね.(反語的に私が尋ねうと,「実はそうなんです」と返ってくることが多いのですが...)
[0221]根上 生也 1999-09-01 (Wed) 09:48:22

それともう一つ質問です.メソドロジーの「メソッド=探求方法」が適用される対象はどこに行ってしまうのでしょうか? その対象は計算機科学の外にあるのですか?

私が提案した1番目の選択肢の場合には,その対象は「究極の仮想空間」に登場するものすべてということになります.だから,「対象」は計算幾何学の範疇からははみ出さない.

第二の選択肢を選んだ場合には,その対象はどうでもよいことになってしまいます.これを否定的な意味で捉えないでください.その対象がどうでもよいということは,それがコンピュータに関係しあにことでもよいということです.となれば,計算機科学が対象としている「メソッド」は,何にでも(多少の制限は許すとして)適用できるものということになり,科学のいろいろな場面で応用される「基礎科学」になりえるのだ!という理屈がつくと思うのですが.(この考えを私が支持しているわけではないです.)
[0222]渡辺 治 1999-09-02 (Thu) 00:46:18
>日常会話で「方法論」と言ってしまうと,なんだか低レベルな感じにも思え
>てしまいます.「よく,それは単なる方法論だからね...」と批判すること
>があるでしょう.

従来型の科学ではそうだったかもしれません.そこが盲点だったわけです.だから,新しい基礎科学が必要なのです.

>渡辺さんの言っている「メソドロジー」はそういう低レベルのことではない
>ですよね.

今度は違います :-) 確かに,公式の使い方だけのような「方法論」の研究では,意味がありません.それは,この鼎談のはじめの方で(暗に批判した)ソフトの使い方を議論するだけのコンピュータ・サイエンスです.真のコンピュータ・サイエンスは,公式そのものを導き出すような「方法論」の研究です.
[0223]渡辺 治 1999-09-02 (Thu) 00:52:12

>それともう一つ質問です.メソドロジーの「メソッド=探求方法」が適用さ
>れる対象はどこに行ってしまうのでしょうか? その対象は計算機科学の外
>にあるのですか?

これは微妙ですね.対象が「記号化」されてコンピュータの上へ取りこまれた時点で,それは計算機科学の対象になると思います.たとえば,砂時計の動きの詳細なシミュレーションモデルを作って,それをコンピュータの上に載せたとします.そうすると,そのモデルの動きの解析は,十分,コンピュータ・サイエンスといえるでしょう.ただ,そのときに,元の砂時計をあくまで意識して解析すれば物理のままです.一方,元の砂時計とは切り離して解析するようになると,それはまさしくコンピュータ・サイエンスになるでしょう.

そういう意味では,根上さんの私が1番目の選択肢に近いのかなぁ?
[0224]根上 生也 1999-09-02 (Thu) 09:20:00

ふーん.

計算機科学が「メソッド」を対象とするサイエンスということを前提に話をすると,そのメソッドを探求するメソッドがあるわけですよね.

その後者のメソッドについて今まで語られてきたことを思い返すと,「論理の暗算」しかないような気がするのですが?他にもあるのでしょうか?
[0225]渡辺 治 1999-09-03 (Fri) 04:21:40
う〜ん.探求メソッドと言われてもイメージできません.たとえば,数学では,こういう質問をされたらどう答えるのですか?
[0226]根上 生也 1999-09-03 (Fri) 06:14:21

数学をメソドロジーだと考えていない以上,渡辺さんの私に対する質問は意味がないですよ.

単純に「方法論」という低レベルなことでよければ,論理的に考える,数式を計算する,微分してみる,積分してみる,なんとかかんとかの全体を考える(例えば,ベクトルがベクトル空間なったり,多項式が多項式環になったり),極小な例を考える,私の専門のグラフ理論に限定すると,図を描く,二部グラフ化する,彩色する,偶奇性を考える,対称的に配置してみる,などなど,ある意味で直観を形式化する方法がたくさんあります.

こういう行為(探求方法の実行)の結果として,対象の構造や現象を述べる定理(探求の対象)が生まれるわけです.

今,私が行った探求の方法を列挙するという行為自体は,ある意味で,探究方法の探求ですが,そこで私が行ったことは,いろいろな証明方法に共通するものは何かと思いを巡らすとか,自己観察とか,です.でも,そういう行為を「基礎科学」とは呼ぶ気にはなりませんよね.

いずれにせよ,渡辺さんの禁断の言葉を借りれば,数学はドメインサイエンスで,私の言い方だと,計算機科学に対して述べた2つの選択肢のうちの1番目に相当するわけだから,その探求方法自体を探求するというメタな探求はしません.(教育がらみでいうと,そうメタな探求が必要だと,私はよくいいますが,ここでの議論とは別の話です.)
[0227]根上 生也 1999-09-03 (Fri) 06:15:47
こういう記述を読んで,メソドロジーはそんなものではない!と言いたくなるかもしれませんが,「ないないづくし」だと,メソドロジーが何なのかがわからないという「ないないづくし」の続きになってしまいます.そこで,振り替えってメソドロジーを記述するキーワード探ってみると,「論理の暗算」しか見つからなかったわけです.

誤解を避けるために述べておくと,私は「計算機科学の探求方法は論理の暗算だけだ」と主張しているのではありませんよ.渡辺さんが表現してくれたことから,私なりの「論理の暗算」をした結果として,浮き上がってくる命題がそういうことになると言っているだけです.そうではないと主張したいのなら,論理の演算以外のものを,もしくは,全然別の視点を提示すべきです.
[0228]根上 生也 1999-09-03 (Fri) 08:20:35

ちょっと振り返って,[0215]にある松井さんの次の質問について答えておきます.

> 根上さんのもっている「数学」のイメージは,
> 現実のものよりちょっと広すぎません?

「現実」の意味によります.

それを「普通の人が思っている数学のイメージ」という意味なら,その通りです.

でも,そういうイメージが支配的になっていることを憂いている数学者は多いと思いますよ.私の数学のイメージは数学者の中でも異端だとは思いますが,私以外の数学者が口にする数学のイメージも,松井さんや渡辺さんが思っている数学のイメージとは食い違っている可能性は大です.

したがって,二人が思っている数学のイメージで,数学を特定せずに,そういう側面があるという理解にとどめておいてほしいです.この鼎談では,計算機科学がテーマなので,数学自体を掘り下げて分析することは避けていますが,必要なら,考えてもいいです.

いずれにせよ,私たちが使っている言葉のイメージをわかりきったこととして議論をしていしまうのは危険です.お互いに議論をぶつけ合って,その言葉のイメージ作りをするというのは,この鼎談の機能の1つでしょう.

この話題は,忘れたことを思い出して述べているだけなので,踏み込まなくてもいいですが,直前の発言とからめると,意味があるかもしれません.
[0229]渡辺 治 1999-09-03 (Fri) 16:17:21

>数学をメソドロジーだと考えていない以上,渡辺さんの私に対する質問は意
>味がないですよ.

んん,そうですか?もしそうならば,メソッドを研究する場合だって,「その研究方法は何なの」と聞かれても困るわけです.数学の場合に,根上さんがあげたように,いくつかの事例をあげるだけになりますよ.

根上さんは,たとえば,アルゴリズムを研究するのにも,プログラムの表現方法を研究するのにも共通の方法論というのを知りたいというのでしょうか?

それより,「方法論(メソッド)っていうけれども,それは単純なことではないの?研究に値するような,複雑な方法論ってあるの?」というように,対象となる方法論の方を聞かれるのでしたらわかるのですが.

つまり,[0224]の
>メソッドを探求するメソッドがあるわけですよね

の前者のメソッドについて聞かれたら答えようがありますが,後者のメソッドについて聞かれても数学と同じような答え方しかできないと思います.
[0230]松井 知己 1999-09-05 (Sun) 12:37:26

渡辺さんの意見に同感です,メソッドを探求するメソッドを,
簡潔にまとめる事はできないでしょう.
それをするには,数学に関する根上さんと答え方と同様に,
いろいろな方法を列挙することになるのではないですか?
それをすると,計算機科学のカリキュラムみたいなものになりそうですね.
[0231]根上 生也 1999-09-05 (Sun) 13:25:27
こういう混乱を生んだ原因は,私が提示した2つの選択肢の2番目の方を選択したからですよ.計算機科学を探求方法自体を探求するという研究だと宣言したから,私がいろいろと突っ込んでいるだけです.

私自身は,第2の選択肢を支持しているわけではないが,それを選択したばあい,こういう理屈がつくのでは,と話を進めてきたわけです.その結果,どうやら,その理屈に対応できるようなことにはなっていない,というのが,二人が示してくれた結論ですよね.

つまり,比喩的に言うと,「背理法によって,最初の仮定は否定された」ということになると思うのですが?

計算機科学のメソドロジー的な側面を完全に否定しようとは思いませんが,探求方法自体の探求というメタ研究的な側面は否定せざるをえないのではないですか.

それとも,計算機科学にはメタ研究的な部分もあるし,計算機科学者なら,それが何ナノかもわかっているけれど,単に,それを雄弁に語るほどに,計算機科学者の自己相対化が進んでいないということなのでしょうか.(同じことを数学者にふられても,同じことだとは思いますが.)

いずれにせよ,私がしょっちゅう言っているように,「ないないづくし」では,計算機科学が生み出す基礎科学が見えてこないので,何かを表現してほしいです.私のつっこみがいろいろな方向に振れるは,いろいろな表現を誘導しようとしているからです.

ぶつぶつ.
[0232]根上 生也 1999-09-05 (Sun) 15:13:34

---
[0233]渡辺 治 1999-09-06 (Mon) 17:45:21
あれあれ,根上さんの言っていることの方がおかしいような気がするなぁ.探求方法の探求だとしても,つまり第二の選択肢を取ったとしても,根上さんの言われるような,探求方法の探求方法の話は出てこなくてもよいと思いますよ.

前にも言ったように,探求方法の探求とは何か?というのならば話はわかりますが,探求方法の探求方法とは何かといわれると困ってしまう,ということです.
[0234]根上 生也 1999-09-07 (Tue) 07:22:50

押し問答を始めてしまうと,以前と同じように土壷にはまる危険があるので,あえて反論しません.

いずれにせよ,私の議論に反論したところで,私が提示する計算機科学のイメージが否定されるだけです.それでは,何も残らない...

第一の選択肢を選択することで,イメージ作りをはかりましょうか?それとも,別の視点があるのなら,それを提示してください.
[0235]松井 知己 1999-09-07 (Tue) 13:02:53
私は,どちらかというと,
第一の選択肢が大きく感じています.
「探求方法の探求」では,捉えどころが無さ過ぎるような気がします.
だから,渡辺さんの話をもっと聞きたいのですが.
[0236]松井 知己 1999-09-07 (Tue) 13:21:15
第一の選択肢では,
仮想空間がハードに強く依存するところに問題があるように思います.
例えば単純に,10年前の計算機パワーで予想された仮想空間と,
現在の計算機で考えられる仮想空間では,
量も質もずいぶん違いますよね.
このあと10年たったら,もっと違っている可能性があります.
また計算機自体の概念も変わる事もあるかもしれません.
こんな状況で,どの知識が将来に渡って重要なのか,
どうやって判断すればいいのでしょう.

[0237]根上 生也 1999-09-07 (Tue) 13:23:49
そうですね.

第一の選択肢を踏まえて,渡辺さんに語ってもらいたいところですが,彼はしばらくスペインに行っているみたいなので,松井さんが思うところを語ってほしいです.
[0238]根上 生也 1999-09-08 (Wed) 08:08:43

さて,確かに究極の仮想空間が見えていないわけですが,自然科学だって,その時代時代で,観測できるものや,受け入れられるものを駆使して,いろいろなことをやっていたわけだし,状況は似ていますよね.
[0239]根上 生也 1999-09-09 (Thu) 08:15:03

それに,将来どんな知識が重要になるかのを判断する必要もないと思います.将来は,こんなふうになるはずだから,これこれをしようとう発想は,科学者的ではないです.どちらかというと反対で,こんなことをしたいという思いと,それに伴う行為の積み重ねが未来を決めていると思います.

では,計算機科学における「こんなことをしたい」は何ナノでしょうか?ここまででは,「究極の仮想空間」という言葉で逃げていたわけで,その辺をあまり明らかにはしていませんでした.

でも,私が「究極」という言葉を使ったのは,計算機や計算機科学の進歩にともなって,実現可能な仮想空間は時間とともに変化し,多岐に渡るだろうけれども,そういうものをすべて包含するような極限的な仮想的な仮想空間の存在をイメージしているからです.

自然科学においても,私たちが「科学」として表現しているものは,モデル空間でしかなくて,それは時代とともに変化します.でも,本当の宇宙空間と対等な究極のモデル空間の解明を夢見て,研究しているのではないでしょうか.
[0240]松井 知己 1999-09-09 (Thu) 11:42:34

おっしゃる事は分かります.
ただ,計算機科学の進展の速さは,
数学や物理あるいは化学と比べても,格段に速いと思います.

例えば情報リテラシーのような基本的な事を学んでも,
10年経ったらまったく役にたたない,という事がありそうですよね.
カリキュラムを検討したりする際にも,
他の学問とはスピードが違う事は,注意すべき事と思います.

研究について,「将来こんなふうになりそうだから‥科学者的でない」
との言葉がありましたが,
「現在は存在しないけど,将来開発されるかもしれないハードウェア」
を予測して研究している研究者は,
計算機科学には大勢いると思います.
付け加えるならば「将来何が起こるのか予測して研究を進める」のは,
科学者的ではないかもしれませんが,
企業の研究所などでは基本的な姿勢ではないでしょうか.

[0241]松井 知己 1999-09-09 (Thu) 11:48:37

企業の研究所等での製品開発の研究等に携っている研究者の多くは,
「究極のモデル空間の解明を夢見て,研究している」
のとは違うのではないかと思います
(私は経験が無いので,実体験として語れませんが).
[0242]根上 生也 1999-09-10 (Fri) 06:10:13
なるほど.

松井さんの言っていることはそのとおりだと思いますが,「基礎科学」の話ではないのですよ.情報リテラシーはもちろんのこと,製品開発となるなると,ますます「基礎」というイメージから外れてしまいます.

また,「将来開発されるかもしれないハードウェアを予測して」とありますが,計算機科学とは関係ない人がそういうハードウェアを作って与えてくれるわけではないですよね.大勢の計算科科学者の個々人の心の中には,未来のハードウェアを生み出そうとする気持ちがなくても,他人任せにせよ,計算機科学者の集団意識の中には,こういうハードウェアを生み出したいと思う心が宿っていると思うのですが.そして,そのハードウェアとは「究極の仮想空間」を顕在化してくれるものです.
[0249]松井 知己 1999-09-14 (Tue) 03:44:01

関与しているのが実状だと言っているつもりです.

計算機科学では,その進む方向の決定に,
人間が積極的に関与できますね.
そのとき,方向の決定には「実利的な社会要請」が
非常に大きな力を持っていると思います.
ここが,従来の自然科学と非常に異なる事が,気にかかっているのです.
従来の「基礎科学」のイメージにくらべ,
「実利的な社会的要請」は抜き難く絡んでくると考えています.

十分考えてはいないのですが,
上記の事は,計算機科学にいくつかの特徴を与える気がします.
例えば,研究方法は「何でもあり」ですから,最初にルールを決めて,
研究者同士が競うという形式が多くなりそうです.
また複数のルールが共存していても,
研究費用の配分のためルールが一つに淘汰されていく事が多いでしょう.

これからの計算機科学の研究者は,計算機科学のそんな特徴を
理解していないといけないと思うのです.
例えば,「実利的な社会要請」から大きく外れた研究は,
もちろん儲けにはつながりませんが,
それだけでなく,たとえばその研究で前提としているハードやソフトが
現実世界ではどこでも作られていないと言うことは多いにありそうです.
「作れない」のではなく「作れるのに,作られていない」です.
その研究を実現するハードやソフトが現実世界に無いだから,
その研究は「その時点」では現実的でないですよね(苦しいかな?).
しかも,作られていない理由は,その研究の質とは違う理由で
決定されている訳です.


[0250]根上 生也 1999-09-14 (Tue) 09:22:15
松井さんが言われていることは,正しいと思うけれど,計算機科学固有の現象ではないような気もします.というのは...

私はあまり歴史に強くないので,断定的にはいませんが,自然科学にしろ,数学にしろ,その時代時代の社会的要請または制約を受けて発展していると思います.

例えば,大航海時代なら,航海術に必要な球面幾何学や,天体観測技術につながる研究などが盛んに行われたのではないでしょうか.でも,社会的要請の波が終わってしまうと,それぞれは独自な方向で動き出すたわけです.現実の世界では実現不可能な対象を議論する現代的な幾何学や,何万光年も先のブラックホールの周辺のようすを覗き込むような望遠鏡の建造(あったっけ?)のように.

計算機科学の場合も同じことで,上の例に喩えるならば,今が大航海時代なのではないですか? だから,社会的要請ばかりが目についてしまう.でも,ゆくゆくは,社会的要請とは切り離されたところでの基礎研究が盛んになるのではないでしょうか.そうならないのなら,以前,松井さんが引用していファインマンの言葉のように,計算機科学は「科学」に昇格するようなものではないとも考えられます.
[0251]松井 知己 1999-09-16 (Thu) 13:49:43

「そうならないのなら,以前,
松井さんが引用していファインマンの言葉のように,
計算機科学は「科学」に昇格するようなものではないとも考えられます.」
という点が,違うと思っているのです.
これまでの自然科学でもある基礎科学は,
社会的要請から切り離されたところがかなりあったと思います.
でも,以前根上さんがおっしゃったように,
計算機の画面の向うにある世界は,自然世界ではありません.
人間が作り出さないと存在しない世界です.
その切り出すプロセスに,現実の要請が入り込むと思っているのです.

もしかすると,ハードウェアを作る研究に関する話が,
ここに出現すれば,もう少し通りが良くなるのかも知れません.
でも私は,ハードの話弱いからなあ.


[0252]根上 生也 1999-09-17 (Fri) 07:19:11
「社会的要請」に関する議論は,多少水掛け論に陥りそうな予感がしますね.

私は,どんな科学でも(計算機科学を含む),その発祥の当初は「社会的要請」に縛れれて動いているけれど,それがだんだん「社会的要請」から切り離されて,基礎科学になっていくと主張しているわけです.

一方,松井さんは,計算機科学に関しては,その「社会的要請」からは切り離されることなく,発展していくいって,今までとは質の違う基礎科学が生まになっていくと主張したいわけでしょう.(乞確認!)

現在の計算機科学に関しては,私と松井さんは同じ見解ということになります.逆に言えば,未来が違う.その未来像を表現しあう必要があると思います.
[0253]根上 生也 1999-09-17 (Fri) 07:30:46

それと,「人間が作り出さないと世界」と私が言っている「究極の仮想空間」との差も重要です.

前者は人間の意図に揺り動かされてしまう世界という感じがしないでもない(あくまで語感の問題として).一方,後者では,「究極」とあるように,それは不変(普遍でも可)なものを意味しています.

私の言っている「究極の仮想空間」というのは,人間の存在とともに普遍的に存在しているのだけれど,その時々のテクノロジーのレベルに応じて,現実の世界(パソコンの画面の中の世界など)に現れてくるものは,限定的なものになっているというような意味を込めた言葉です.だから,その時代時代に登場する「究極の仮想空間」の断面は,「社会的要請」に大きく依存して存在することになる,という意味では,松井さんの考えに同調することができます.

でも,その人間とともに存在する「究極」の存在を模索する行為は,「社会的要請」を超えたものだと思います.
[0254]松井 知己 1999-09-19 (Sun) 15:37:30

>その「社会的要請」からは切り離されることなく,発展していくって,
>今までとは質の違う基礎科学が生まになっていくと
>主張したいわけでしょう.(乞確認!)
その通りです.

>多少水掛け論に陥りそうな予感がしますね.
私もそんな気がします.私の方が,
自信を持って主張を展開出来てないからでしょう.

根上さんに同調していただける部分は,理解できます.
それは,「どんな科学も,社会から完全に切り離される事はない.」
というくらいの意味ですよね.

>「人間が作り出さないと存在しない世界」と
> 私が言っている「究極の仮想空間」との差も重要です.
その通りです.私の言葉使いが良くないですね.
計算機の画面の向うは,
「人間が作り出さないと存在しない環境だ」とでも言うべきでした.
「仮想空間」は仮想なので,
それを切りだして(切り出したものを環境と呼ぶならば),
環境を共有するというステップが必要です.
このステップが,他の自然科学に比べ非常に特徴的ですよね.
この特徴が何を引き起こすのかが,良く見えません.
「環境を切り出して,共有する」というステップで,
社会的要請が強く入り込むのではないかと予想しているのです.

[0255]根上 生也 1999-09-20 (Mon) 08:11:45
なるほど. 「環境を切り出して,共有する」というステップでの社会的要請と,以前渡辺さんが言っていた「ルールを決めて」という話とが絡んではこないでしょうか?

あのときは,計算機科学における構造の欠如などを強調するために,「どんなルールだっていい」と渡辺さんは言っていたのだと思いますが,心の奥では「なんだっていいわけではない」と思っているのだと,勝手に想像しています.(そろそろ,渡辺さんもスペインから帰った頃でしょう.)

つまり.社会的要請によって,いいルールと悪いルールが区別されるとのではないでしょうか.でも,その際,「社会的要請」を「経済原理」のようなものに矮小かしすぎてしまうと,話が変な方向に行ってしまいます.儲かるルールと儲からないルールのような...

で,その話(いいルールと悪いルール)の延長上に,私の「人とともに存在する究極の仮想空間」という怪しげな表現の謎解きが待っています.そのCorollaryとして,教育との関係も明らかになります.(神様担当なので,何も恐れず,平気で断定してしまう私でした.)
[0256]松井 知己 1999-09-22 (Wed) 23:38:41
根上さんのまとめには,まったく同意します.
そして,「社会要請」を「経済原理」に矮小化してしまう強い力が,
計算機科学には働くと,私は感じています.
矮小化の力の強さは,数学とは比べ物にならないほど,強いと思います.
ですから.計算機科学の研究者は,
上記の点に十分注意しないと,研究が変な方向に行ってしまう,
というのが,言いたかったことなのです.
おお,自分でもやっと理解したぞ.
[0257]根上 生也 1999-09-23 (Thu) 12:07:57

ほー,ほ,ほ(サンタクロース,または笑うセールスマンのように)
それはよかった.

で,議論を先に進める前に,「現在」の計算機科学者がどんな社会的要請を受けているのかも聞いておきたいですね.このままだと,「社会的要請」=「儲かる」以外の構図が表現されていないです.

私たち,3人の中で,計算機科学者を自称できるのは,渡辺さんだけなわけだし,渡辺さんはどのような「社会的要請」を受けていると感じているのでしょうか?

渡辺さん,いる?
[0258]渡辺 治 1999-09-24 (Fri) 01:36:51

バルセロナから戻ってきました.長いこと留守して申し訳ありませんでした.

鼎談の内容は,インターネットという便利な道具のおかげで,ときどき見てはいましたが,やはり,書き込むとなると手間がかかるので,「研究に専念せよ」という皆様の暖かいお言葉にしたがって,専念してきました.(おかげでおもしろいこともできかけています.)

さて,何から話していいか,膨大な「対談」を自分で編集して見ながら,考えてみました.
[0259]渡辺 治 1999-09-24 (Fri) 01:39:49

社会的な要請の話が随分出ていたので,そのことから話しをはじめましょう.

松井さんも指摘されていたように,コンピュータの発展とその利用形態の進化のスピードの速さには,驚くべきものがあります.そのおかげで,我々計算機科学者は飯のたねにありついているのですが,逆に,そのあまりの速さは,我々にとって脅威でもあります.

たとえば,米国の著名な計算機科学者でチューリング賞受賞者でもあるハートマニス教授は,この発展のスピードがコンピュータ・サイエンスをサイエンスにするのを阻む可能性がある,と以前,警告していました.

世の中の人々が,コンピュータのあまりの便利さに,コンピュータは単なる道具と思い込むようになってしまうからです.これは,一般人に限らず,技術者,科学者,そしてコンピュータの研究にたずさわっている人でさえです.したがって,道具を改良したりする「技術」は見とめるものの,それは単なる技術であって,そこには科学はない,と思い込んでしまうからです.

米国では,状況はかなり改善してきています.何しろ,コンピュータは金を産み出します.インターネットのドメイン名の登録料だけで,NSF (National Science Foundation) は,莫大な利益を得ました.幸か不幸か,米国はお金の社会です.お金があれば新しい科学の分野だってできます.実際,NSF では,健康科学(医学関係),工学,自然科学,人文科学などと並んで,コンピュータ・サイエンスは,科学技術の五大分野の一つになりました.

一方,日本では,お金が儲かることは,かえって「科学から離れたこと」とみなされる風潮があります.もちろん,皆さんに使ってもらえる物(ハード・ソフト)を作り出すには,科学以外のセンスも多く必要です.でも,だからといって,そこには科学はない,という風潮は,我々にとって大変悲しい状況です.

しかも,我々,計算機科学者は,そこに新しい基礎科学のたねを見出しつつあります.しかも,これは単にコンピュータにとどまらない,という予感さえします.つまり,「社会の要請」によって人間によって作り出されるいろいろな物(ハードであれ,ソフトであれ)の「作り方」に対する基礎科学になるのでは,と考えているわけです.

そういった認識を持っている人たちは,日本ではまだ少数ですし,発言力も弱いのが現状です.でも,コンピュータの利便性に目をとられて,この基礎科学の芽を見過ごしてはならない,と私は思っています.そういう意識もあって,この鼎談をやろうと言い出したわけです.
[0260]渡辺 治 1999-09-24 (Fri) 01:41:24

ところで,お二人の対談は,

社会的要請と基礎科学としての要件の話しは,行き詰まってしまったように思えます.松井さんは,基礎科学と言えども,社会的要請に立脚した基礎科学が必要である,一方,根上さんは,いつまでも社会的要請から切り離せないようでは,科学にすら昇格できない,と対立していますね.

でも,社会的要請から切り離せないとなぜ,科学にすら昇格できないのでしょうか?下世話な言い方をすれば,お金(人気)にばかり左右されていては,真理探求をめざすことはできない,ということでしょうか.確かにその通りです.何かの探求を目指すときには,やはり,お金などとは切り離された別の価値観が成熟する必要がありますよね.

では,コンピュータ・サイエンスが,社会から分離して進んでいってもよいでしょうか?それでは,コンピュータ・サイエンスは科学にはなるかもしれませんが,新しい基礎科学にはならないと思います.私が以前から主張していた「新しさ」は,人間のために,人間に依存した部分がありながら,それが工学ではなく,科学である点にあります.

では,この矛盾をどう解決したらよいでしょうか?私が,根上さんの二つの選択肢に関係の二番目に固執している理由はここです.

もしかして誤解があるといけないので,根上さんの二つの選択肢を復習してみましょう.

1.コンピュータ・サイエンスにも,究極の仮想空間という真実の世界があって,それを追求するのがコンピュータ・サイエンスである.

2.コンピュータ・サイエンスでは,探求する世界自体は重要ではない,その探求方法(アルゴリズムや,表現方法)が重要なのである.

つまり,1においては,その仮想世界は唯一ですし,その公理系(実際には,記述不可能かもしれないが)が一つあるという立場です.一方,2では仮想世界は,公理系(ただし,この場合は,記述可能な公理系が対象)ごとにいくつもあるという立場です.

また,1では,その仮想世界のことが興味の対象であるのに対し,2では,個々の仮想世界自身のことは,その場では重要かもしれないが,コンピュータ・サイエンスとしては重要ではない,むしろ,与えられた仮想世界の探求法(もっと直感的な言い方をすれば,処理方法)が重要である,という立場です.

たとえば,あるゲームの世界を記述するルールがあって,そのルールに従ったとき,その世界の住人Aがどこにいるかを高速に判定する「方法(アルゴリズム)」を見出すのが,選択肢2の目標です.Aがどこにいるか自身には,興味はないのです.

なぜ,この選択肢2をとることが,先の社会的要請と基礎科学の要件の矛盾の解決になるのでしょうか?それは,社会的要請を受け入れる部分を「公理を作る部分」に切り離しているからです.仮想世界は,その必要に応じて,適当に作ればよいのです.我々の研究は,それを処理するところ,あるいは,その公理をうまく表現するところにあるのです.つまり,ある程度の独立性を確保することができ,しかも,処理方法や表現方法における「真理」の探求に目を向けることができるのです.


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