Web 鼎談:コンピュータ・サイエンスは21世紀の基礎科学になるか?

総集編 No.5

8月の鼎談

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5.1.本当に「計算」には構造がないの??

7月の鼎談から
松井: 「構造が見えない」というのは「計算」の大きな特徴であり, それを扱うCSに何らかの特色を与えているということですね.

[0052] 渡辺

はい,そうです.扱う対象が雑然としてとりとめのないところが難しいのです.

そして,なぜそうなるかというと, 「計算」が強力な表現力を持っていて, ある意味で人工物として表せることならならば何でも表せてしまうからです. (もちろん,根上さんが [0063] でちょっと指摘されているように, 「計算」で表せないこともありますが.)

[0073] 根上 「構造がない」なんてありえない.見えないだけですよ.根上氏雄弁に語る.

う〜む... 構造の有無(うむ)について,もう一言,二言いわせてください.

私は,数学が構造があるものを扱っていて, コンピュータ・サイエンスが構造のないもの(または,あまりないもの) を扱っているという考え方には賛成しがたいです.

そういう差があるような気がするのは単なる歴史的な問題だと,私は思いますよ. 数学の歴史は古いので, 学問として成熟している分野が多いので, 対象の構造がすでに明らかになっているものが多い. その結果として,教科書や授業などでは, 構造が先に登場するようなストーリー展開になっていく. でも,数学者が先端的な仕事をするということは, やはり見えていない構造を見えるようにするということです.

私は基本的には幾何学者なので, 自分の中にある幾何学的な直観を, 形式的な言葉で表現したり, 論証の形で直観の正当性を示したりするわけです. それと,解析的な研究している人の姿を見ると, どうやって式を計算していったらよいのかを必死に模索している感じです. つまり, 構造が見えていない段階というのがあって, 闇雲に計算するわけです. その結果として, 後から構造が見えてくるのですよ.

一方,コンピュータ・サイエンスは歴史が浅いので, あまりあらかじめ人に示せる構造が乏しい. でも,チューリング・マシンとかオートマトンとかいう構造だってありますよね.

ここからは私の憶測ですが, コンピュータ・サイエンスにおける構造の欠如を口にするのは, 渡辺さんがコンピュータ・サイエンスの先端で活躍する研究者だからなのではないですか? つまり, 見えてない構造を求めるというスタイルでコンピュータ・サイエンスの研究をしているということです. 一方, 数学に関しては, 先端的な動いている研究を目にすることがないから, 教科書になるようなできあがったものだけを数学と思って議論してします. その結果として, 数学には構造があると言いたくなっているのではないですか.

どんな分野でも, ある意味で研究が一段落するということは, それなりの構造に到達したということですよね.

歴史的な浅さのために広く浸透している構造がないとか, 研究者なので構造の見えないものを対象にしているとか, そういうことで構造の欠如を指摘しているのだとすると, ナンセンスです.(再び,そうでないことを祈る.)

根上氏が熱く論じています. 今,読み返すと, 「まったくその通り」という気にもなりますね. ただ, ここで「構造あり」というと, 従来型の構造になってしまうようで...

そもそも構造がない状態なんてありえないです. 従来の基礎科学では扱えない, もしくは扱ってこなたっか構造を扱うという切り口で, これかた登場するであろうところの基礎科学を特定していくべきではないのでしょうか?

もしそうでないとすると, 渡辺さんと松井さんがうなずき合っている「構造」って何なのですか?

[0074] 松井 確かに,CSは幾何学などと比べて歴史が短く, 直観を論証する方法を確立できてないのかもしれませんね.

「構造の有無」という単語が一人歩きしてますね. 整理してみると.

  1. 計算という人工物を対象にするから難しい.
  2. なぜ人工物を対象とすると難しいのか?
  3. なぜかというと, 何でもありだから,構造が無いから.
ということで「構造」という単語が出てきたのですよね.

ただ, 根上さんのおっしゃる通り, 最後の点はどんな学問にも当てはまりますよね.

私がうなずいているのは,

計算という人工物を扱うため,たとえば幾何学といった数学に比べ, 構造が見えにくいことが難しさと直結している

という点に共感を覚えたからです.

歴史の進み方の違いは,大きいと感じています. 幾何学の通って来た道は, (人間の直感を) 表現したり論証したりする方法を確立するのに長い歴史がありますね.

それに比べコンピュータ・サイエンスでは, 人間の直観を表現したり論証したりする方法を確立するのに 費やした歴史が異様に短いのだと感じました.

どうも「歴史の短さ」に押し切られそうな. 「ただそれだけではない」 と言いたいのですが...

5.2.計算困難性は作図不可能性に通じるのでは?

[0076] 渡辺 それでも「構造が見えにくい」と言いたいのです.

少し考えを練り直しました.

根上さんのおっしゃるように, 歴史の浅い分野や最先端の研究では構造が見えにくいと思います. ただ, コンピュータ・サイエンスの場合には, やはり構造の見えにくさが特徴だと思います. その理由は松井さんがまとめて下さったことにつきると思います.

ただ, そこで数セミの読者のためにもう一押. コンピュータ・サイエンス(の一分野)の難しさは数論の難しさと似ているのです. ちょっとした疑問(例:フェルマの定理)がとてつもなく難しかったりする, そんな状況なのです. これは組み合わせ理論などにも通じます.

その理由はなぜか? それは以前から言っているように人工物を対象としているからなのです.

そういう観点からすると, 数論や組み合わせ理論などもコンピュータ・サイエンスの一部に入るかもしれません. ここまで言うと言い過ぎでしょうか? 工学すべての基礎となるべく基礎科学だと大見得をはった以上, このくらい大風呂敷を広げることにしたのですが,いかがですか?

作戦を練り直して, 数論や組み合わせ理論も取り込んでしまおうと考えたのですが. フェルマの定理は例が悪かったなぁ.

[0077] 根上 構造がすぐ見えるような定理は,数学でもプロは扱いませんよ.

私は,やっぱり,渡辺さんのいい分は,言い過ぎだと思います. どんな分野だって,初めはどうしてよいのかわからない難問が山ほどあると思います. 構造が見えていて, それをちょいちょいといじって証明できてしまう程度の定理は, 普通,Exercise と呼ばれて, 研究者レベルでは,あまり高い評価を受けません.

構造が見えているところは適当に処理した上で, 「あとは組合せの問題だね」などという会話をよく耳にします. どうしてよいかわからないから, 全部調べてしまえというわけですが, その組合せ的な議論が終了すると, 構造が欠損していた部分の凸凹が補完されて, きれいな構造を表現する定理ができあがるわけです.

う〜ん. この「どうしてよいかわからないから全部調べてしまえ」が, 前面に出てくるのがCS(人工物)だと主張していたのです. なぜ, このとき, そういう風に突っ込めなかったのか.残念ひとしきり.

専門外の人が目にするのは Exercise に近い部分ばかりなので, 渡辺さんたちが述べているような思い込みをする人たちが多いのは, 現象として理解できますけどね. でも,それは思い込みであって,真実ではありません.

真実ではないことは承知の上で, 思い込んでいる人でわかり合える比喩として述べているというのなら, 許してあげてもいいですよ.

[0078] 根上 フェルマーの定理は悪い例ですよ.例としては作図なんかがいんじゃないの.

いずれにせよ,フェルマーの定理を引き合いに出すのはよくないです. だって,楕円曲線という構造とリンクすることで問題を解決しているのだから.

ごもっとも!

数学の例でコンピュータ・サイエンスの感じを出すのだったら, たとえば「角の三等分」の問題のほうがよいのではないですか? コンパスと定規だけで作図するという制限もとで, 与えられた角を三等分ができるかどうかという問題です. 「できない」が正解なのは有名ですよね.

計算手順を設定もしくは制限したときに, 何ができるか,逆に何ができないかという問いかけは, 渡辺さんたちがいっているコンピュータ・サイエンスの雰囲気に近いと思います. 実際,「コンパスと定規だけでは,任意の角の三等分はできない」という命題は, 公式や評価式を与えている定理や必要十分条件を述べている定理とは, どこか異なる雰囲気を持っていますよ. その異質さこそが, コンピュータ・サイエンスが得意とするところなのではないですか.

まさか,コンパスや定規は「具体物」だけど, コンピュータ・サイエンスで扱う計算はもっと抽象的な「人工物」だから. なんて反論しないでしょうね.

[0079] 渡辺 そうですね.「コンパスを 17 回だけ使って正 12 角形が書けるか?」はどうですか. あくまで比喩ですけど.

確かに作図不可能性の話は計算不可能性の話に通じるところがあります. ただ,その例だと,やはり私の言いたかった「人工物の難しさ」が出てきません.

たとえば「17 回だけしかコンパスを使わないで正 12 角形が書けるか?」 という問題はどうでしょう? しかも,仮に答えが No だとしましょう. 多分,その証明はかなり難しいでしょう. しかも, 「17 回で正 12 角形」と「19 回で正 18 角形」とでは, 似ても似つかない証明方法や考え方が必要になるかもしれません. そういう難しさです.数論などにもよく見かけますよね.

「8, 9, 10 が素数でなくて 11 が素数なのは,なぜか?」というのと同じです. そこに構造を見ようとしても無理ですよね.

[0081] 松井 作図の不可能性の例はいいですね. 重要な話に着実に近づきつつある気がします.

作図の不可能性の例は,いいですね. 感覚的にうったえる良い例という気がします. でも,まだ感覚的で, 数学との違いをうまく説明できる自信がありません.

この話だいぶ長くなっていますが, その分,重要な話に着実に近づきつつある気がします.

いやいや,まだまだバトルは続くのです.
==> 9月の鼎談へと続く

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