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鼎談 3月号

[0377]渡辺 治 1999-12-15 (Wed) 08:25:04

復帰しました!どうもすみません.

いろいろいうべきことはいっぱいあるのですが,鼎談終結に向けていかないとならないので,それらは保留しておきます.

そして,鼎談最終章に向けて,根上さんがされた大胆な提案(発言)について集中します.要点をまとめると,

>それはさておき,計算機科学の基礎科学的部分は,変質した新しい数学のう
>ちなのではないか,というのが私の主張です.

ですね.そしてひとことで言えば「計算機科学を数学に取りこむ計画」ですね.根上さんが,そう来たならば,私も大胆にいきます.

渡辺の提案:数学二文化(二分化)計画

趣旨.数学には,実は二つの文化が内在している.自然科学の基礎としての数学と,人工物(自然数,グラフ,言語)に対する数学である.というより,つい最近までは(たとえば戦前までは),自然科学の基礎としての数学しか,まともな数学ではなかった.しかし,人間の進化により(たとえば,コンピュータが発明されたことにより),後者の数学もまともな数学に育ちつつある.同じ数学といっても,この両者は文化的にかなり違ったものを持っている(技術的には共通する部分も多いが).この際,その違いを明確にするために,数学を二つに割ることを提案する.

いかがでしょうか?その一方に,計算機科学が組み込まれるのならば,大賛成ですが.
[0378]根上 生也 1999-12-16 (Thu) 06:11:16
なるほどね.
でも,渡辺さんの思うところの「数学」は私の思うところ,もしくは,数学者が思うところの「数学」とは食い違うと思います.

渡辺さんの数学二分説を私流に翻訳し直すと,「数学を使う人」と「数学を創る人」の分離だと思います.もちろん,前者は「自然科学の基礎としての数学」に対応します.

それを数学と思っている人の数が圧倒的に多いので,それを数学と呼ぶ習慣にはなっていますが,数学が作られていった歴史の中には,そういう数学とは別の精神が流れていたと思います.

2次方程式や3次方程式ならば実用的でしょうが,4次方程式や5次方程式の解法に興味をもつことは,自然科学の基礎を創ろうという精神とは別のものだと思います.

また,円周率を何桁も求めようとする行為だって,自然科学の基礎とは言い難いと思います.自然科学に役立つというよりも,人間の存在証明のような行為だと思います.

こういう実用を無視した数学は,ここ近年のことではなく,今日のような数学の表記方法や形式化が整うよりも,ずっと以前から行われてきていることです.その精神は「数学を使う人」の心とはまったく違うものです.

そういう精神の存在を無視して,自然科学の基礎としての数学だけを数学と呼ぶことを正当化している多数決の原理のようなものに,多くの数学者は辟易としています.

現在では,自然科学の基礎として求められているものとは独立に存在する数学が山ほど作られています.そういう数学こそが,古代から脈々と受け継がれて来た数学的精神に支えられた数学本来の姿でなのです.
(これは,私が,計算機科学が,社会的要請から独立して存在できるように成長することを期待している構図と似ています.)

こういうことを主張したところで,それは「私が思っているところの数学」でしかない,多くの人はそう思っていない,という反論が返ってくることが多いのですが,それは多数決の原理に基づく反論でしかなく,真実の姿を見ている人が少ないというだけのことだと思っています.

私が期待しいる数学の変容,「正しくは」,多くの人たちの数学観の変容は,自然科学の基礎かどうかとは独立な数学的精神への気づきです.その気づきのもので計算機科学を見ると,数学と同じ精神が流れていることが理解できて,数学に見えてくるというわけです.

上で「正しくは」と強調しているのは,決して「数学」自体が変容するわけではないからです.学問として表現された数学の見掛けは時代とともに変化するでしょうが,そこに流れている数学の精神は不変です.

こういる理解のもとでは,渡辺さんの数学二分化計画は,歪められた数学観を肯定して,1つの部分として容認する計画なので,もろ手を挙げては賛成できません.

とりあえず,ここまで.
[0379]松井 知己 1999-12-17 (Fri) 02:08:13
大胆な計画が持ち上がってますね。
私の持つ計算機科学のイメージは、
数学の分野が拡大・分離してできるもの、とは違います。
この計画の議論は、「基礎科学としての計算機科学」
という前提で進めてくださいね。

[0380]根上 生也 1999-12-17 (Fri) 04:11:08

もち.

私も計算機科学がすべて数学の中に取り込まれてしまうとは思っていません.渡辺さんがよく「計算」というキーワードで語ろうとしている部分は,私がいうところの「数学」と数学を使う人がいうところの「数学」の内に取り込まれてしまうと思っているだけです.

人間がしたいこと全体を象徴する「究極の仮想空間」を対象とする基礎科学という観点で計算機科学をみれば,それは「数学」の発展形でもなく,数学のうちでもありません.

でも,以前「そこまで計算機科学を高めなくてもよいのでは」という指摘があったので,上では,この部分に言及しなかっただけです.

さてさて,松井さんの持つ計算機科学のイメージとは,いかなるものなのでしょうか? キングギドラとともに語ってください.
[0381]渡辺 治 1999-12-21 (Tue) 09:58:41

私は逆に根上さんに質問したいのですが...

>人間がしたいこと全体を象徴する「究極の仮想空間」を対象とする基礎科学
>という観点で計算機科学をみれば,それは「数学」の発展形でもなく,数学
>のうちでもありません.

これはどういう意味でしょうか.私は,根上さんの言われる計算機科学の基礎の部分は数学(根上流,真の数学)に含まれるというのに,半分,同意しかかったのです.でも,上の根上さんのコメントからすると,もっと大きなことを考えているようですね.その大きな像を少し語ってもらえませんか?
[0382]根上 生也 1999-12-22 (Wed) 05:25:38
本当に聞きたい?
[0383]渡辺 治 1999-12-22 (Wed) 13:36:36

はい,是非とも :-)
[0384]根上 生也 1999-12-23 (Thu) 08:02:57

でも,その前に松井さんの計算機科学のイメージについて,話を聞くべきです.松井さんの持っているイメージは,私の,もしくは私たちの持っているものとは違うという指摘を受けたわけですが,「違う」と言われただけでは,そのイメージが何なのか,検討がつきません.

というわけで,松井さんの書き込みを待つことにしましょう.
[0385]根上 生也 2000-01-04 (Tue) 06:29:13

欠番
[0386]渡辺 治 2000-01-09 (Sun) 05:20:35

欠番
[0387]松井 知己 2000-01-12 (Wed) 02:08:30


あけまして,おめでとうございます.
我が家の計算機は,2000年問題もクリアして稼動しています.

私の持つ「計算機科学のイメージ」ですが,
「計算機工学のイメージ」というべきだったような気もします.
(計算機科学と計算機工学の違いは,
良く分からないうちに言葉が陳腐化してしまった感があります.
本論と関係ないので,止めましょう.)

この鼎談で何度も出てきたように,
計算機科学の重要な枠組みに,
アルゴリズムあるいはメソッドがありますが,
アルゴリズムで処理されるデータにも,私は興味があります.
物理現象における重量や速度といった
(第一次的現象と呼ぶのでしたっけ?)データや,
社会現象における統計データ等の事を指しているつもりです.
視点が一段階挙がった際に,
メソッド自体がメタなメソッドによって操作されるという意味での,
データではありません.
そういったデータを取得し,操作し,活用するまでの全体を
捉えるための学問が必要なのではないかと思っています.
私の想像している計算機科学は,そんな学問ですが,
これは基礎科学としての計算機科学ではありませんね.
データの取得と結果の活用の部分が,
社会的な制約と要請を強く受ける部分であり,
他の分野との接点となる部分でしょう.
私自身は,そこに興味が大分あるようです.

この鼎談を始めて,上記のような感覚を持っている方は,
世の中の特に計算機科学の非専門家に
多いのではないかと感じるようになりました.
計算機科学の専門家でない知り合いと話す機会があると,
計算機科学者というのは「計算機」をいじっている,
というイメージが殆どですね.
電気工学をやっていると言うと,
「じゃあテレビが直せるの?」と言われるようなものでしょうか.
自分の研究分野を聞かれたとき,
逆に鼎談の目的である,
「基礎科学としての情報科学」というイメージを伝えたいと
思うのですが,これは殆ど理解されず,
私も結局「数学(みたいな事)もやっている」と答える事になります.
それが,専門家で無い人にとって,一番近いイメージのように感じます.

[0388]根上 生也 2000-01-13 (Thu) 14:54:43

なるほど,なるほど.

松井さんの最後の台詞からもわかるように,結局,計算機科学の基礎的な部分というのは,「数学みたいなもの」なわけですね.

計算機科学者,数学者,応用数学者(といっていいですか?)と,三者の立場は違いますが,「計算機科学の基礎的な部分は数学のようなもの」という点は共通理解のようですね.

それを数学のうちに取り込むというのが私の野望なわけだし,数学を二分化してその一方に納めようというのが渡辺さんの計画だし.
[0389]根上 生也 2000-01-13 (Thu) 15:26:26

ところで,私は,以前,皆さんの指摘に応じて,計算機科学を近未来的なところに限定して議論することにしていたのでした.だから,渡辺さんが聞きたがってる数学からはみ出た部分については,あまり語りたくありません.でも,渡辺さんが是非にというので,ちょっとだけ述べます.

たとえば,計算機がもっと発達して,計算機科学も十分に発達していくと,計算機によって切り出される「究極の仮想空間」の断面としての仮想空間では,私たちの想像を超えたマクロな現象が現れるのではないかと思っています.仮に,その仮想空間を成立させるルールが明示的に与えられているとはいえ,その現象をシンタクティック(でしたっけ?)に理解することが実質的には不可能で,与えられたルールとは別の原理を探求して,その現象を理解したほうがよいとうことが起こるのではないでしょうか.

よく「これこれは,計算不可能である」といった定理を耳にします.角の三等分は原理的にできないというとは違って,計算でそれを決定しようとしても,極めて困難で,事実上決定不可能であるといった意味の定理だと思います.

たとえば,かなり専門的になってしまいますが,「任意のグラフの族に対して,極小マイナーは有限個である」という定理があります.この3人が知っている例だと(読者のみなさん,すいません),非平面的グラフの族の極小マイナーはK_5とK_{3,3}の2個だけです.RobertsonとSeymourのグラフ・マイナーという理論を用いると,これと似た現象が一般的に成立するという大定理が証明できます.その一方で,「その有限個の極小マイナーは,一般には計算不可能である」という定理も知られています.(確か,Mike Fellowsの定理だったと思います.)

この2つの定理が意味するところは,計算という観点だけでは理解できないが,正しいことがわかる現象が存在するということです.となれば,その現象は,計算や与えられたルールとは別の原理によって,理解されているわけです.

この例は数学の例なので,数学からはみ出す部分の例になっていませんが,究極の仮想空間における森羅万象の中には,明示的なルールの積み上げでは事実上到達不可能で,他の原理や法則の存在を明らかにすることで理解できるマクロな現象があるのではないかと思います.

そういう現象を探求する研究は,自然科学の探求と似ているところがあって,純粋な数学とは異なる精神で遂行されるものです.

まあ,映画「マトリクス」の仮想世界をイメージして,この話を考えると,理解できるかもしれません.反対に,単なる空想的な夢物語を語っていると誤解されてしまうかもしれませんが...

[0390]根上 生也 2000-01-13 (Thu) 15:29:09

いずれにせよ,上の私の話には深入りせずに,話をまとめる方向で書き込んでいきましょう.
[0391]根上 生也 2000-01-13 (Thu) 15:34:37

まず,私がこの鼎談を通じて,大事だったと思うことは,「基礎科学」とは何なのかを規定せずに話を始めたことです.

「...新しい基礎科学は生まれるか」というテーマだと,まず「基礎科学」とは何なのか定義しないと,話が始まらないと懸念していた人も少なくないと思います.でも,それをあえてせずに,それぞれが好きなことを言い合う中で,私たちが「基礎科学」に何を期待しているかが,しだいに明らかになっていったと思います.これはいいことです.

[0392]渡辺 治 2000-01-14 (Fri) 05:33:52

はい,はい,でも,今は大学の機械で日本語入力が難しいので,
家で書きます.お楽しみに.
[0393]渡辺 治 2000-01-14 (Fri) 22:16:18

確かに根上さんのおっしゃるように,基礎科学とは何ぞや,ということも議論せずにスタートしてしまったという無謀な試みでした.幸い,議論の中で大分明らかになってきたようには思います.

ただ,コンピュータ・サイエンスの基礎科学的な部分は,結局は,ある種の数学ではないか,という議論に落ち着くので,本当によいかについてもう一度,最後に問いかけさせてください.

私自身も,一時は,それでよいかなぁ,と思いました.でも,正月につらつら考えてみると,それでは何でそもそも「コンピュータ・サイエンスは新しい基礎科学である」と言い出したのか,その意義が薄れてしまうのではないかと反省するようになりました.

たとえば,松井さんは,2000年問題は,計算工学的と言われました.コンピュータ・サイエンスは,たとえ,基礎であっても,そういった工学的なこと,応用に即したことから分離できない,分離してはいけないのではないか?という思いがあるのです.だからこそ,新しい基礎科学だと言い出したようなところがあります.

それと対照的なのは,原発の臨界事故です.さる高名な物理学者が,今回が本当に物理的は原発の事故である,とおっしゃっていました.でも,この原発の事故の原因は物理的な問題であるとはだれも思いません.人為的な問題ですよね.それに対し,2000年問題はどうでしょう.誰もが,これはコンピュータ関係(さすがにサイエンスとまでは言う人はいないかもしれませんが)の問題だというでしょう.これも単なる人為的な問題と見てもいいのに.

この鼎談のはじめのころ,「何でもかんでもコンピュータ・サイエンスと思われてしまう」と嘆きましたが,実は,それもコンピュータ・サイエンスの大きな特徴なのではないかと反省しているのです.そういった面を完全に分離して基礎科学を議論するのでは,私が何となく考えていた「新しい基礎科学」とは離れて行ってしまうのではないかと思ったのです.

支離滅裂になってきてしまいましたので,取りあえずこのあたりで.
[0394]根上 生也 2000-01-15 (Sat) 06:14:01

なるほど.

コンピュータ・サイエンスには,単に数学的な部分だけではなく,それと不可分な何かがあって,初めてコンピュータ・サイエンスだというわけですね.

その考え方は,松井さんが,社会的要請からは切り離せないといった趣旨の主張をしたと思いますが,それに通じるものがありますね.

私のビジョンの中にも,人とともにある究極の仮想空間という概念を持ち出して,数学からはみ出る形での基礎科学のあり方を語りました.

その数学からはみ出た部分というのが,人それぞれの観点で,いろいろだったわけですね.

[0395]根上 生也 2000-01-15 (Sat) 23:42:54

欠番
[0396]松井 知己 2000-01-16 (Sun) 11:58:16

確かに,この対談では,基礎科学がなんなのか,
わからない状態ではじまりましたね.
日本の大学の基礎科学は,
歴史的には欧米のリベラルアーツのイメージがあるのだと思います.
でも,計算機科学はリベラルアーツの枠組みに入らない,
という新しさがあるのかなと漠然と感じていました.
基礎科学全体のバランスといった話も必要な気もしますが,
ちょっと私の手にはあまる話題のようです.
[0397]根上 生也 2000-01-17 (Mon) 05:33:43
まあ、単純な考え方だと、基礎科学は、「基礎」と「応用」を組にして考えるときの、「基礎」に相当する方ですよね。偉そうに言えば、あまり応用を意識しないで、より根本原理を探求する科学といったところでしょう。

また、この鼎談の中で、「世界を記述するメソッド」という捉え方も出てきていたと思います。私はこのフレーズが結構気に入っています。

で、「世界を記述する」の主語は何かというと、それは当然、人間です。人間の知性というフィルターを通して、世界を眺めて、そこに見えてきたものを記述するわけです。

そう思うと、いろいろな基礎科学は、人間の世界を認識する機能に対応して存在していると仮定して、基礎科学を考えてみるのもよいかもしれません。

例えば、数学は、人間の数理的能力に対応しているわけだし。自然科学なら、人間の法則を発見する能力に対応していそうだし。計算機科学(あくまで、計算機科学から生まれるであろう近未来的な基礎科学を指します)となると、人間の手続き的処理能力に対応しているとでも言えばよいのでしょうか。

もちろん、人間には大昔から手続き的な処理能力はあったわけだけれど、人間というマシンで実行できる手続きが小規模だったので、それに対応する基礎科学が意識されずにいた。ところが、コンピュータの登場によって、それが顕在化してきた、と言えるかもしれませんね。
[0398]渡辺 治 2000-01-18 (Tue) 08:24:56

手続き的処理能力に対応する,という考え方はおもしろいですね.

もう少し付け加えさせてもらえれば,数学も自然科学も「理解」に関する能力ですよね.どちらかというと受身的なものです.それに対し,手続き的能力というのは,かなり能動的です.つまり,「世界を認識する能力」といっても,計算機科学の場合には,かなり能動的な部分に関連してきますね.

つねずね,計算機科学は量との勝負といってきましたが,これも能動的な側面から出てくるのかもしれません.道具や機械,そしてコンピュータなどが向上すればするほど,人間の処理能力(あるいは処理能力欲望)はますます増大し,ますます複雑なことを処理したくなるのです.
[0399]松井 知己 2000-01-18 (Tue) 13:55:03
手続き的処理能力に対応する,というフレーズは耳にすんなり入りますね.
昔は,手続き的処理能力はどう扱われていたのでしょうね.
きっと手順という単語が対応して,
身体が覚えるものが代表だったのかも知れませね.

手続き的な処理が,知識として認識され共有されるようになったのは,
何が最初でしょうね.
うーん,医学かな,それとも農業かな‥.
計算の量の概念が認識されたのは,いつかな‥?

あんまり関係無い話題ですね.

[0400]根上 生也 2000-01-19 (Wed) 00:16:27
例えば,認知科学の本を見ると,人間の知識には,「宣言的知識」と「手続き的知識」があると,よく書いてあります.私は,それだけではないと思っているけれど... 悪口的にいうと,あまり数学的な体験のない人は,こういうことをよく言うんです.

「手続き的処理」の起源については,私も知りません.
[0401]根上 生也 2000-01-19 (Wed) 10:51:52

私は,当初は人間の手続き的処理に対応して生まれた計算機科学だけれど,いずれコンピュータが見せてくれる世界が,その枠組みを超えて動す.その瞬間から,私が思うところの数学とは違う新しい基礎科学が動き出すと思っています.

でも,この予言が成就するのはずーっと未来のことなので,近未来的には,人間の手続き的能力の対応して存在する基礎科学というのが,落しどころのような気がします.
[0402]渡辺 治 2000-01-20 (Thu) 00:14:14

最近の認知科学は,計算機科学の影響をもろに受けているようなので,その本も,その影響かもしれません.(計算機科学は世界を支配しつつある ;-)

(蛇足)
>私は,それだけではないと思っているけれど... 悪口的にいうと,あまり
>数学的な体験のない人は,こういうことをよく言うんです.

まあ,文脈がわからないので何とも言えませんが,根上さんが物足りないと思っているのは,「理解」の部分ではないですか?一方,これは知識の話なのでは...(蛇足終わり)
[0403]根上 生也 2000-01-20 (Thu) 13:16:15
確かに,私の不満は「理解」の部分だと,言えるかもしれません.

何かの問題を解決するときに,すでに知っている知識ややり方を駆使するというよりも,自分自身が何かに同化するという感覚が私にはあります.

でも,初等教育的な問題解決しか知らないと,宣言的知識と手続き的知識の連鎖で,問題が解決されているような感覚を持つかもしれませんね.

そういうレベルで解決できる問題は,以前も言ったように,専門家の間では「エクササイズ」と言われていて,そんな問題を解いたと論文の中で主張しているようでは,笑いものになるだけです.

エクササイズではない段階の問題解決を記述するには,宣言的知識や手続き的知識だけでは不十分だと私は考えています.

私が「数学的な体験のない人」と呼んでいるのは,そういうエクササイズ・レベルの超えた問題解決を知らない人のことです.悪口的に言うと,受験問題の延長上でしか,数学の問題を捉えられない人のことです.

そういう人が考える数学観,教育観,しいては,世界観というのが,世の中に蔓延しているように思うのですが...


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