元ファイルの目次へ, 鼎談総集編の表紙

鼎談 2月号

[0261]根上 生也 1999-09-24 (Fri) 16:56:02

私と松井さんの議論の中では,「社会的要請」とは,なかり矮小化した意味になっています.以前には,私自身は,1つの研究分野が,禁止されることなく,1つの科学として受け入れてもらえること自体も,「社会的要請」を受けているという捉え方もできるということも述べています.

そういう意味(私の意味)では,社会的要請と切り離されることなく科学が成立できますよ.でも,松井さんとの共通の言葉使い(松井流)としては,「社会的要請」は「経済原理」に近い意味で,悪い言葉で言えば,「儲かる・儲からない」という価値判断のようなものです.

基礎科学をやっていたのに,結果的に儲かってしまうこともれば,儲けを考えて研究していたのに,結果的に基礎的な研究をしてしまっていたということもあるでしょう.誰も,儲かったら基礎科学ではないなどとは言っていません.

私は,基礎科学的な価値というのは,「儲かる・儲からない」という価値とは独立だろうと言っていて,松井さんは,究極の仮想空間を切り出して環境とするためには,人為的な行為を伴うので,「儲かる・儲からない」という価値が大きく影響せざるをえないと言っています.

別に,私が言っていることと松井さんが言っていることは,矛盾することではなありませんよ.私の言っていることは根源的なことで,松井さんが言っていることは現象的なことです.

渡辺さんは,どういう意味で「社会的要請」という言葉を使っているのでしょうか?根上流,松井流,それとも第三の渡辺流?

それと私がいうところの「究極の仮想空間」の中では,自分流に公理を設定して世界を作ることが許されています.ただ,「仮想空間」と言わずに「究極」をつけているのは,すべての仮想空間がそこで実現可能な超越的な空間で,経済原理とは独立に,人間とともに存在しています.(まだ,あまり詳しくは表現していませんが.)

このような言葉の使い方で,渡辺さん自身の考えを表現しなおすと,どうなるでしょうね.

いずれにせよ,私と松井さんの議論が行き詰まっているというのは,誤解だと思いますよ.どちらかというといい感じだと思うのですが.松井さん,どう思いますか?
[0262]松井 知己 1999-09-26 (Sun) 14:46:39

はい,はい.
私と根上さんとの間では,やっと合意が取れたと感じています.

また,渡辺さんの話とも整合性が取れていると思います.
(儲かる話も「1部」として含む)社会的要請は,
「究極の仮想空間」から「個々の仮想空間」を切り出す部分に,
すなわち公理系を決める部分に,
かなりの部分が押し込められているのですね.

確認しておきたいのですが, 渡辺さんが,
「個々の仮想世界自身より,その探求法が重要」と言うとき,
探求方法の研究は個々の仮想世界毎に閉じていないですよね.
探求法自体は,複数の「個々の仮想世界」にまたがるような(メタな)
ものが求められるのですね.
いや,「求められる」は適切ではないですね.
多くの「個々の仮想世界」に関連付けられるという事が、
その探求方法の「美しさ」「良さ」の尺度になると
言ってしまったら言いすぎでしょうか.


[0263]松井 知己 1999-09-26 (Sun) 14:57:06
なるほど,この鼎談にはそういう意図もあったのですね.
渡辺さんの「計算機科学が基礎科学になって欲しい」という願いが,
どこから来ているのか少し分かった気がします.


[0264]松井 知己 1999-09-26 (Sun) 14:57:35

あと,ハートマニス教授の警告という話は,
どこかに書かれたものがありますか?
米国ではどんな風に議論されているか興味があります.
[0265]根上 生也 1999-09-28 (Tue) 11:35:31

うーん.ますますよい感じになってきました.

この鼎談の当初は,あえて,相手の反対のことを言ってみることで,いろいろいな観点を引き出してきましたが,以前には拮抗していると思われていたことが大きなビジョンの中に統合されていっているような気がします.
[0266]渡辺 治 1999-09-29 (Wed) 11:24:41

私は,まだ,まだ納得がいかない部分があります.しつこくてすみません.

その前に,根上さん,松井さんの質問にお答えしておきましょう.

>私と松井さんの議論の中では,「社会的要請」とは,かなり矮小化した意味
>になっています.

>でも,松井さんとの共通の言葉使い(松井流)としては,「社会的要請」は
>「経済原理」に近い意味で,悪い言葉で言えば,「儲かる・儲からない」と
>いう価値判断のようなものです.

>渡辺さんは,どういう意味で「社会的要請」という言葉を使っているので
>しょうか?根上流,松井流,それとも第三の渡辺流?

私は上の松井さんの意味での「社会的要請」を使っています.

>あと,ハートマニス教授の警告という話は,
>どこかに書かれたものがありますか?
>米国ではどんな風に議論されているか興味があります.

直接はないのですが,一連の議論は,次のような本になっています.

Computing The Future,
By Computer Science and Telecommunications Board,
National Research Council, U.S.A.
National Academy Press, 1992
ISBN 0-309-0470-4

また,この後もこの本の内容をめぐって,theory net などのメイリングリストで議論が沸騰しました.その,まとめがどこかにあったのですが...
[0267]渡辺 治 1999-09-29 (Wed) 11:27:55

ありました.

http://www.eccc.uni-trier.de/eccc/info/actual.html

です.
[0268]渡辺 治 1999-09-29 (Wed) 11:38:27

さて,納得いかない点を少しすっきりさせてください.時間は,私がスペインに行く前に戻ります.

[0231] 根上さん曰く

>こういう混乱を生んだ原因は,私が提示した2つの選択肢の2番目の方を選
>択したからですよ.計算機科学を探求方法自体を探求するという研究だと宣
>言したから,私がいろいろと突っ込んでいるだけです.

...

>私自身は,... 計算機科学のメソドロジー的な側面を完全に否定しようとは>思いませんが,探求方法自体の探求というメタ研究的な側面は否定せざるを>えないのではないでしょうか.

ここのところがどうしても気になります.なぜ,メタな研究をしてはいけないのでしょうか?たとえば,アルゴリズムの研究のどこが悪いのでしょうか?
[0269]渡辺 治 1999-09-29 (Wed) 11:43:11

このことは,松井さんの次の質問にも関係します.

>確認しておきたいのですが, 渡辺さんが,
>「個々の仮想世界自身より,その探求法が重要」と言うとき,
>探求方法の研究は個々の仮想世界毎に閉じていないですよね.

はい,そうです.個々の世界だけの探求法ならば,まだ,ドメインサイエンスの域を脱していないのです.つまり,メタな議論になって,はじめて計算機科学といるのです.(多少,誇張はあるけれども.)
[0270]根上 生也 1999-09-30 (Thu) 09:02:14

誤解のないように述べておくと,私はメタな研究をしてはいけないとは言っていませんよ.渡辺さんが説明していたことが,「メタな研究」になっているかどうかを吟味した結論として,私流の意味での「メタな研究」にはなっていと判断しただけです.もしくは,いくつか会話を交わした結果,私がいうところの「メタな研究」という言葉の意味が伝わっていないと判断して,議論を中止しました.意味が伝わっていない用語を使って話をしても,押し問答になるだけなので.

いずれにせよ,私の感覚では「アルゴリズムの研究」はメタな研究には思えません.すでに渡辺さんが説明してくれた,作図の問題や学習理論の話は,アルゴリズムの研究だとは思いますが,それはメソドロジーだとすると,それに対応するオブジェクトは何ナノですか? そもそもアルゴリズムが手続き的に書かれるので,それをメソッドだと思ってしまいそうですが,そのメソッドが適応されるオブジェクトがないのだったら,それ自身がオブジェクトなのだと思います.
[0271]根上 生也 1999-09-30 (Thu) 09:15:35

そもそも,渡辺さんも言っていたように,オブジェクトとメソッドを絶対的な尺度で区分けすることにも意味がありません.

数学教育の専門用語で,「ファンヒーレの理論」というのがあるのですが,子供の学習段階では,オブジェクトを解析するメソッドが次に段階のオブジェクトになると言われています.

つまり,現段階で計算機科学がメソドロジーだという主張しても,ある時期がくれば,メソドロジーではなくなる可能性を秘めているわけです.「メソドロジー」を「新しい基礎科学」を形容するものとして採用してしまうと,その新しさは時間に依存したものになってしまいます.私は質的な新しさを期待して「新しい」という言葉を使いたいのですが.

そういう意味では,「究極の仮想空間」を対象とする基礎科学という言い方をすると,従来にはない,いろいろな特性が議論できると思います.たとえば,「社会的要請」を受けやすいとか.

渡辺さんは,選択肢1を選ぶことに,異議があるのでしょうか?
[0272]松井 知己 1999-10-03 (Sun) 06:09:32

すいません,「ファンヒーレの理論」について無知なのですが,
根上さんの説明の文章が理解できません.
どこかミスタイプしています?

そうでなければ,後学のためもうちょっと説明していただければ幸いです.
[0273]根上 生也 1999-10-03 (Sun) 16:11:30
「ファンヒーレの理論」という言葉にはこだわる必要はありませんが.参考までに説明しておきましょう.

子供が身の回りにあり物を見て,「四角」だの「丸」だのと言うのが,最初の段階です.身の回りのある物がオブジェクト(対象)で,「四角」や「丸」という呼称がそのオブジェクトを操作するメソッド(方法)です.

次の段階になると,「四角」や「丸」という呼称だけの存在が,「辺が4本ある」とか「直角がある4つある」とかいう性質で図形を見るようになる.つまり,前段階のメソッドだった「呼称」を操るメソッドが「性質」なわけです.

その次の段階は,「性質」を「命題」として表現する.論理的な記述=「命題」とすることで,言ってみただけだった「性質」というオブジェクトがきちんと操作できるようになるので,「命題」をメソッドと捉えられなくもないですね.

最後には,その「命題」がオブジェクトになって,「論証」がメソッドになるわけです.

私の言葉に変換された記憶を頼りに書いているので,「ファンヒーレ」(人の名前です)が言っていることと完全に一致はしないかもしれませんが,いいことはわかってもらえるでしょう.対象と方法という組が1つずつずれていって学習段階が進むというわけです.

この「ファンヒーレの理論」を支持するかどうかはともかくとして,「ドメインサイエンス」(でしたっけ)と「メソドロジー」の関係と似ているとは思いませんか.
[0274]根上 生也 1999-10-03 (Sun) 16:39:19

多少,余談になりますが,ある数学教育の勉強会で「ファンヒーレの理論」のことを説明している人がいたので,「命題」が対象で「論証」が方法の段階の次はどうなるんですか,と聞いてみたことがあります.その答えは予想通り,「抽象的思考段階に到達したので,そこで終わりです」でした.当然,私は「そんなことはない」と主張しました.

日常的な基本図形による命題と論証を操れる段階に到達すると,今度は,論証によって存在が保証されるものが対象となる,もしくは,そういう対象を直観で捉えられるようになって,新たな段階が始まるのだと,私は言いました.ある意味で,それまでに体得したことがカプセル化して,そのカプセルを1つのものとして扱えるようになる.たとえば,上の例だと「平面機幾何」という呼称で呼ばれるカプセルを手にいれて,他のカプセルといっしょに頭の中にしまっていられるようになる.頭の中で,そのカプセルどうしが,ゴンゴンとぶつかって,相互作用を起こす新しい世界が見えてくる.「4次元空間が見える」という体感が生まれてくるんだ...

これは私の自己観察にもとづく発言で,ファンヒーレの理論ではありません.

いずれにせよ,この話は,以前言っていた「階層構造の存在」という話につながることです.「究極の仮想空間」の中には,対象と方法(オブジェクトとメソッド)という枠組みに依存した階層構造がめんめんと連なっているのだと思います.
[0275]根上 生也 1999-10-03 (Sun) 16:45:18

たとえば,私の勝手な思い込みで言わせてもらうと,学習理論の分野で研究されていたアルゴリズムは,いずれはある満足のいく段階になったら,そのアルゴリズムで動いている何者か(単なるコマンドのようなものかもしれないし,人工生命のようなものかもしれない)が,コンピュータの画面(正確には,画面に限定する必要はない)の中の世界(=「切り出された究極の仮想空間」)に登場することになるのでしょう.

さらに,そいつらが,勝手に学習をして,いろいろなことをするようになるので,どうやって管理すればいいかとか,もしくはどうやって付き合っていけばいいかといった方法(メソッド)の研究が必要になってくる.

仮に,そいつらが人工生命として現れると,それなりの姿形をしているだろうから,人間には,何かの物のように感じられるでしょう.でも,そいつらは所詮アルゴリズムの塊です.つまり,アルゴリズムが「対象」となって,それを操作する方法としてのアルゴリズム(もはやアルゴリズムとは別物かもしれない)が登場することになって,階層構造が1つランクアップするわけです.

[0276]渡辺 治 1999-10-04 (Mon) 00:26:41

私も質問しようと思っていて,次のようなことをワープロで入れていて,時期を逸してしまいました.

--------------
根上さん曰く
>いずれにせよ,私の感覚では「アルゴリズムの研究」はメタな研究には思えません....
>そのメソッドが適応されるオブジェクトがないのだったら,それ自身がオブジェクトなのだと思います.

メソッドか否かをオブジェクトのあるなしで議論するのは無意味だと思います.根上さんがどのような意味でメソッドとかオブジェクトとか言っているのかがわからないので,何とも言えませんが,以下の根上さんの発言を見ると,どうも,プログラミングの分野で使っているような,メソッドとオブジェクトの話をしているように思います.

>そもそも,オブジェクトとメソッドを絶対的な尺度で区分けすることにも意味がありません.

>現段階で計算機科学がメソドロジーだという主張しても,ある時期がくれば,メソドロジーではなくなる
>可能性を秘めているわけです.

やはり,ここは,

>いくつか会話を交わした結果,私がいうところの「メタな研究」という言葉の意味が伝わっていないと判
>断して,議論を中止しました.意味が伝わっていない用語を使って話をしても,押し問答になるだけな
>ので.

というようなつれないことを言わないで,説明してもらいたいのですが...

-------------

さて,上の根上さんの説明を見ると,やはり,プログラミングにおけるオブジェクトとメソッドのようなことを話されているように思います.
[0277]渡辺 治 1999-10-04 (Mon) 00:49:49

>この「ファンヒーレの理論」を支持するかどうかはともかくとして,「ドメ
>インサイエンス」と「メソドロジー」の関係と似ているとは思いませか.

残念ながらそうは思いません.私が「メソッドの研究」と言う場合には,もっと抽象的な側面をさしています.ただ,抽象的に言うだけではわかりにくいので,例をあげて説明してみます.

たとえば,我々三人が結構知っている話題で,ボロノイ図というのがありますよね.簡単に言えば,空間中の各点の縄張りを示すような図です.このボロノイ図については,計算幾何学というコンピュータ・サイエンスの分野で,その性質やら求め方やら使い方が,深く研究されてきました.

さて,ある動物生態学者が,動物の縄張り形成の状況を計算機上にモデル化し,それをシミュレーションするプログラムを作ったとします.その生態学者は,プログラミングに関してもかなりの才能を持っていて,彼の作ったプログラム中には,ボロノイ図を高速に解いてしまう部分が含まれていたとしましょう.

さて,そのとき,彼のプログラムは,コンピュータ・サイエンスの研究の成果と言えるでしょうか?

私の答えは No です.彼が,そのプログラムが何をやっているかに気づき,それが,他の分野にも応用できることを見出し,その上で,速い計算方法を示すまでは,それは,あくまでもドメインサイエンスの域を脱しない,というのが私の考え方なのです.

実は,あまりこれにこだわるのも危険なのですが...それはいずれ.
[0278]根上 生也 1999-10-04 (Mon) 05:14:47
まず、お説教。

誰かがAとBは似ていると言ったときに、それは似ていないという反応は感心しません。似ていないというのが真実だとすると、似ていると言った人は頭がおかしいのでしょうか?(今の場合、頭がおかしい候補は私です。)その人が似ていると思っている以上、そこに何らかの共通項や同じ構造を感じ取っているわけだから、それを理解することを目指すべきです。その上で、別の観点から見ると、AとBは似ていないと結論すべきです。それが論理的な考え方だと思うのですが。

「ファンヒーレの理論を指示するかどうかはともかく」と「ファンヒーレの理論」という言葉にはこだわる必要はありませんが」と前置きしているように、「ファンヒーレの理論」は1つの比喩であることを理解してください。完璧に同じものでないかぎり、似ているとは言わないという態度は生産的ではありません。互いに相手が言っていることをそうではないと主張して、まったく別物を提示するよりも、私たち3人が口にすること全体を統合するアイディアを求める段階に来ていると思います。

渡邊さんは私が「ファンヒーレの理論」を引き合いに出して言おうとしていることが理解できないのでしょうか。もう少し正確にいうと、私が述べている主張自体に矛盾があると思っているから、「そうは思いません」と言われているのでしょうか? 相手の主張の正当性はともかく、自分の主張とは異なるから、きっとそこには矛盾があるという理解は正しくないですよね。(それは、連続体仮説は教えるところです。これも比喩ですよ。)
[0279]根上 生也 1999-10-04 (Mon) 05:24:56

質問にも答えておきましょう。

> さて,上の根上さんの説明を見ると,やはり,プログラミングにおけるオブジェクトとメソッドのようなことを話されているように思います.

この発想はどういう論理から生まれることなのですか? 「プログラミング」を引き合いに出して説明していた話題もありましたが、最近話題にしていることは、もっぱら観念的(私)もしくは、社会的(松井さん、正しい形容詞ではないかも)なことで、具体的なプログラムの話は出てきていないですよ。そもそも「プログラム」という言葉すら使っていない。渡辺さんがそう思う理由はなんなのですか?

[0280]根上 生也 1999-10-04 (Mon) 05:40:07

続いて、動物生態学者の話ですが、渡辺さんの意見には、以下のように字句を修正した上で、了解してあげます。

「彼がそのプログラムが何をやっているかに気づき、生態学とは独立な概念で記述できることを知り、その上で、計算の高速化の障害となっている構造を発見するまでは、それはあくまでもドメインサイエンスの域を脱していない。」

計算機科学者がいろいろな分野に気を配って、自分の理論が応用できる事例に強い関心を持っているとは思えないのですが。(少なくとも数学者はそうです。)また、ただ、速い計算方法を見付けただけでは、渡辺さんが言っているような「抽象的な側面」をさしていない話になってしまいます。

ただ速いアルゴリズムを作るだけでは、私はそれを「メソドロジー」と認定しても、「メタな研究」とは認定しません。速いアルゴリズムはなぜ速いのか、速いとはどういうことなのかと問わないと「メタ」ではないのです。以前、問題の難しさ(困難性だっけ?)を手数の多さだけで片付けられてしまったときと、同じ不満が残りますよ。
[0281]根上 生也 1999-10-04 (Mon) 06:17:37
欠番
[0282]根上 生也 1999-10-04 (Mon) 06:28:34

いずれにせよ、コンピュータサイエンスから生まれる基礎科学を「究極の仮想空間」を対象とする科学であるというビジョンの中で、私たち3人が主張しあっていることがすべて語ることができるように思うのですが。どうでしょうか?

その際、大事なことは、「コンピュータサイエンスから生まれる」という部分です。現存のコンピュータサイエンスは新しい基礎科学かどうかということを語り合っているのではないですよね。もちろん、現在の状態を理解した上で、未来を考えるという意味では、その問いかけも無駄ではありませんが。
[0281]渡辺 治 1999-10-04 (Mon) 06:30:58

>誰かがAとBは似ていると言ったときに、それは似ていないという反応は感
>心しません。似ていないというのが真実だとすると、似ていると言った人は
>頭がおかしいのでしょうか?

大分,曲解されてしまったようですね.私は,単に,根上さんの観点には同意できない,と言いたかっただけで,しかもその根拠として,私の観点を示す例をあげたのですが.

>その人が似ていると思っている以上、そこに何らかの共通項や同じ構造を感
>じ取っているわけだから、それを理解することを目指すべきです。

ある程度理解したつもりでいます(後述).

>その上で、別の観点から見ると、AとBは似ていないと結論すべきです。そ
>れが論理的な考え方だと思うのですが。

はい,そのような手順を踏んで書いたつもりなのですが...

>「ファンヒーレの理論を指示するかどうかはともかく」と「ファンヒーレの
>理論」という言葉にはこだわる必要はありませんが」と前置きしているよう
>に、「ファンヒーレの理論」は1つの比喩であることを理解してください。
>完璧に同じものでないかぎり、似ているとは言わないという態度は生産的で
>はありません。

もちろんです.ファンヒーレがどうのこうのというつもりは毛頭ありません.

>互いに相手が言っていることをそうではないと主張して、まったく別物を提
>示するよりも、私たち3人が口にすること全体を統合するアイディアを求め
>る段階に来ていると思います。

まだまだ,お互いに誤解があると思います.それをはっきりさせた方がいいと思いますし,また,言葉で理解しあう過程で,アイデアも,もっとよく見えてくるのではないでしょうか.
[0282]渡辺 治 1999-10-04 (Mon) 06:34:38

欠番
[0283]渡辺 治 1999-10-04 (Mon) 10:40:02

>渡辺
>>やはり,プログラミングにおけるオブジェクトとメソッドのようなことを
>>根上さんは話されているように思います.

根上さん
>この発想はどういう論理から生まれることなのですか? ...

話が飛んでしまってすみませんでした.説明を加えます.

まず,上の私の発言をもう少し正確に述べるならば,「根上さんが対象(オブジェクト)と方法(メソッド)と示している関係は,最近のプログラミングにおいてよく使われるオブジェクトとメソッドに対応していますね」ということです.

最近のプログラミングのスタイルに,オブジェクト指向型プログラミングというのがあります.その流儀では,操作の対象となるのがオブジェクト,操作がメソッドと呼ばれています.ちょうど,それと同じ関係にあると思ったのです.プログラミングにおけるオブジェクト,メソッドは相対的なものです.メソッドであっても,それがまた階層が上の操作の対象となれば,オブジェクになります.そういった意味で,根上さんがファンヒーレ理論を持ち出して言おうとしていたことにも合う解釈だと思ったわけです.

数学の言葉で言えば,一般には,関数がメソッドです.でも,関数を対象とするような汎関数に対しては,関数自身はオブジェクトです.こういった階層関係,あるいはオブジェクトとメソッドの相対的関係を根上さんは指摘したかったのではないでしょうか?
[0284]渡辺 治 1999-10-04 (Mon) 10:54:53

根上さんがファンヒーレの理論で説明したかったオブジェクトとメソッドの関係が,私の上のような解釈だと思ったうえで,

>「ドメインサイエンス」(でしたっけ)と「メソドロジー」の関係と似てい
>るとは思いませんか

について再び考えてみましょう.ドメインサイエンスが,はたして,相対的な対象としてのオブジェクトに対応するでしょうか?私は,そんなに軽いものだとは思いません.「ドメインサイエンス」という片仮名語を使ったのが悪かったのかもしれません(だから片仮名は嫌だ).ドメインサイエンスは,即席日本語で言えば,「既存学問分野」です.既存学問分野を相対的なオブジェクとみなすのは,おかしいと思うのです.

いかがでしょうか?

それとも根上さんは,各既存学問分野で扱われている対象のことを言っているのですか?
[0285]根上 生也 1999-10-04 (Mon) 10:57:29

欠番
[0286]渡辺 治 1999-10-04 (Mon) 11:55:11

欠番
[0287]根上 生也 1999-10-05 (Tue) 09:33:52

欠番
[0288]根上 生也 1999-10-05 (Tue) 09:38:50

渡辺さんの[0283]の理解は,いいと思いますと.オブジェクト指向プログラミングの発想と私が言っている「ファンヒーレの理論」にまつわる発想は似ていると思います.似ているだけで,私はプログラミングのことを話したかったわけではありませんよ.
[0289]根上 生也 1999-10-05 (Tue) 09:45:57

[0284]については,「既存学問分野」と言い換えても,混乱は解消できないのではないですか.というのは,これは「メソドロジー」との対にやる言葉とは思えないからです.既存の学問分野の中にもメソドロジーがあってもいいわけでしょう.

いずれにせよ,1つの学問分野の中には,その分野の研究対象とその研究方法が対になって納まっています.これをオブジェクト指向プログラミングにおけるオブジェクトとメソッドの関係と見ることもできるでしょう.

渡辺さんは,そのメソッド自身を研究することを「メソドロジー」と言っているのではないですか.
[0290]根上 生也 1999-10-06 (Wed) 05:27:36

私ばかりでもうしわけない.

渡辺さんの発言を読み返して,「メタ」の良い例が思い付いたので,述べておきます.

それはオブジェクト指向プログラミングを考案した研究は,「メタ」な研究のように思えます.

C++とか,Javaとかの個別言語を使って,どういうプログラムを作るかという議論を始めてしまうと,それはメタではありません.しかし,プログラムするとはどういうことなのか,という問いかけに対する1つの答えが,オブジェクト指向プログラミングだったわけでしょう.その問いかけの研究は「メタ」です.

「メタ」な研究も,「メソドロジー」と同様に,物がはっきりと見えだしてくると,「メタ」という印象が薄いものになっていきます.オブジェクト指向の例で言えば,オブジェクト指向という発想に至るまでは十分に「メタ」で,1つの言語を設計する段階も「メタ」研究に近いけれど,その言語の設計が完成してしまうと,それを研究対象とする普通の研究(=「既存学問分野」?)と同じになります.

数学基礎論にしても,当初は「メタ数学」だったのだろうけれど,今となっては「数学」に見えます.

「メソドロジー」にせよ,「メタ研究」にせよ,私の言葉づかいでは,相対的な言葉です.したがって,そういう言葉を使って述べた命題は,時間とともに意味を失っていく可能性があります.
[0291]渡辺 治 1999-10-06 (Wed) 14:01:40

大分理解が深まったような気がします.私も「メタ的な研究」は,上のオブジェクト指向という手法の形成のような研究のことを意味すると思っています.もちろん,オブジェクト指向という考え方だけでは,ひ弱なので,その考え方を具体化する道具としての言語の設計までが,メタ的な研究です.

そして,その言語そのものの研究となると,確かにメタな研究にはならなくなりますね.メタであるにせよ,ないにせよ,それらはすべてコンピュータ・サイエンスの研究であることは確かです.
[0292]渡辺 治 1999-10-06 (Wed) 14:04:44

少し整理してみます.根上さんは,純粋に「研究方法」という技術をさしてメソドロジーと呼ばれているのだと思います.それに対し,私は,既存学問分野から独立なものという意味で,「探求方法」という言葉を使っていました.

確かに根上さんが言われるように,各学問分野にもメソドロジー(研究方法)が当然あります.研究方法は,研究対象と同様,分野を形作る重要な柱です.ということは,逆に,各分野の研究方法は,その分野の歴史や哲学に引きづられることになります.

ちょっと小さい例ですが,たとえば,群論の研究スタイルは,群という対象の見えない部分(場合によっては群の公理では表せていない部分)まで含めた真理を見出そうという動機に基づいた研究スタイルかもしれません.つまり,記述されていない思想が背後にあって,その影響を受けた研究スタイルになっているかもしれません.(もちろん,群論はあくまで例えです.本当は,物理などのもう少し広い分野で説明した方がよかったかもしれません.)

そうした背後の思想から独立な研究手法について,議論するのが,コンピュータ・サイエンスですよ,ということを言いたかったのです.それが「探求方法自体を研究する科学」の意味です.

では,分野から独立なら,何を根拠にするか?というとルールです.群論でいえば,公理です.公理を根拠にして,それのみに忠実に,後は,どんな手法でもよい (*1) から,何か素晴らしいことを導き出す,それが分野から独立した手法というわけです.

*1 既存分野の背景にとらわれない,何でもありの手法で!
[0293]渡辺 治 1999-10-06 (Wed) 14:06:23

(続けてですみません)

これを根上さん流に言えば,「究極の仮想空間上での議論」ということになるでしょうか.確かに,上の例は,仮想空間上の推論方法の話になります.

ただ,コンピュータ・サイエンスを(あるいは,コンピュータ・サイエンスから生まれる未来の基礎科学を),究極の仮想空間を考える科学とするには,抵抗があります.

それには,二つの理由があります.まず,第一は,ルール化して,仮想空間上にのっける作業自身もコンピュータ・サイエンスの重要な研究の一つだと考えるからです.(これが,[0277] で予告した部分です.)

確かに,仮想世界に移ってからが,コンピュータ・サイエンスの出番ですよ,それまでは,ドメインサイエンスの領域ですよ,といえば,きれいにすっきりするのですが,それでは,従来の数学や物理とあまり変わりがありません.一番最初から言い続けているように,コンピュータ・サイエンスが「新しい」基礎科学になるという意味は,そうした,学問のはざままで含めて,「やり方」を提示するという点にあります.

ですから,仮想世界だけに閉じこもるのは,コンピュータ・サイエンスの重要な側面を失う恐れがあると思うのです.
[0294]渡辺 治 1999-10-07 (Thu) 01:49:53

欠番
[0295]根上 生也 1999-10-07 (Thu) 07:27:58
せっかく整理してもらったのですが,私の言葉の使い方を誤解されているようですね.

研究対象=オブジェクト
研究方法=メソッド
研究方法を研究すること=メソドロジー

さらに,この用語は相対的な表現を表すもので,研究分野が成熟してくると,
メソッドがオブジェクトに,メソドロジーがメソッドにとシフトします.

研究対象と研究方法の対で1つの研究分野ができていると考えるとして,その分野の研究方法を研究していたメソドロジーの汎用性に気づいて,他の分野の研究分野の研究方法にも適用できるものを生み出せると,そのメソドロジーが計算機科学に昇格するというわけですよね.

渡辺さんの主張の内容をこう理解していいでしょうか?
[0296]根上 生也 1999-10-07 (Thu) 07:41:36

疑問1
仮に,そうだとすると,それは何で「計算機科学なの?」という疑問が湧きます.そういう基礎科学があってもよいと思いますが,なんで「探求科学」(あまりいい響きではない)とかいう名前ではなくて,「計算機」が冠につくのでしょうか?

疑問2
また,いろいろな分野の上に立って研究方法を見渡すようにな高級な研究分野が,計算とかルールとかいう限定的で,微視的なキーワードに縛られなければならないのでしょうか?

疑問3
さらに,以前も書きましたが,計算機科学者はいろいろな分野のことに感心があるのですか? もちろん,個人的にはそういう人もいるでしょうが,計算機科学者像の中に,いろいろな分野のことをよく知っていて,いろいろな分野に共通に適用できる理論を作ろうとしている姿が含まれているのでしょうか?

数学に関しては,結果的にいろいろな分野に使ってもらえるとしても,純粋数学者は,いろいろな分野に使ってもらうことを意識して研究していないと思います.(少なくとも私はそうです.)

疑問4
いずれにせよ,渡辺さんの期待または理念はわかったつもりですが,現存の計算機科学は,いろいろな研究分野に適用可能な研究方法,もしくはいろいろな研究方法を研究できる探究方法を提供してくれているのでしょうか?
[0297]松井 知己 1999-10-07 (Thu) 16:20:50
ええと,スピードが速くてちゃんと付いて行っていません.
根上さんの疑問を読む前に書こうと思った事ですが,
渡辺さんのイメージが少し分かった気がします.
ですので,根上さんの疑問以前の状態で話させてください(すいません).

根上さんが提示した「究極の仮想空間の探求」ではなくて,
「探求方法自体」を渡辺さんは主張しているのですね.
渡辺さんの視点を根上さん風に焼きなおすなら,
「究極の仮想空間」がメソッドというイメージなのではないですか?

現在計算機を使って「究極の仮想空間を探求している」
と言う場合は「究極の仮想空間」はオブジェクトですね.
渡辺さんの言う「探求方法の探求」というメタレベルでは,
計算機という概念は消えてしまい,
しかも探求対象としての「究極の仮想空間」も無くなってしまいます.
では.「何で計算機科学なの?」.
(おお,これは根上さんの疑問1だ)
「公理をつくる」,「ルールを作る」と様々な言い方が
渡辺さんから出てきましたが,それらを結ぶものは,
「究極の仮想空間で捉える」という点で共通していますよね.
それは,究極の仮想空間がメソッドというイメージを
渡辺さんが持っているのではないですか?

ファンヒーレの段階で言えば,
「究極の空間を計算機を使って探る」ではオブジェクトだった
「究極の仮想空間」が,
もう一段階あがってメソッドになるべきだ,
というのが渡辺さんから根上さんへの主張ではないでしょうか.
[0298]松井 知己 1999-10-07 (Thu) 16:30:50
もう一歩,進んでみようかな.
「究極の仮想空間」がメソッドだったら,オブジェクトはなんだろう?
それは,この世界なのではないでしょうか.

例えば「計算機」は,
この世界を認識する(探求する)ためのメソッドとしては貧弱すぎます.
「究極の仮想空間」は,その名前の暗示する通り,
この世界を探求するためのメソッドではないでしょうか.
そして,これが基礎科学への道筋のような気がします.

もしかして「基礎科学」とは,その学問自体が,
この世界の認識のためのメソッドとなりうる事なのではないでしょうか?

ちょっと,一人で突っ走っていますね.

[0299]渡辺 治 1999-10-07 (Thu) 22:58:59

>せっかく整理してもらったのですが,私の言葉の使い方を誤解されているよ
>うですね.

はい,そうですね.私自身の発言の中でも言葉の使い方に混乱があります.ですから,整理してみます.

>研究対象=オブジェクト
>研究方法=メソッド
>研究方法を研究すること=メソドロジー

はい,そういうことで結構です.しかも,これはあくまで相対的なことであるという点も注意しておく点ですね.

一方,私が言ってきた「探求方法」というのと,ときどき出てきた「メタ」という言葉の意味です.まあ,一般的な使い方として,

メタな研究=対象がオブジェクトならばメソッド,メソッドならば,メソドロジーのように,(操作)階層が一つ上のものに対する研究

がいいかと思います.さて,問題は,「探求方法」といった場合の意味です.一見すると,これは,メタな研究のように思えます.私も当初,少し混同していたところがあります.しかし,そうするとメソッドの研究なのか,メソドロジーの研究なのか,ということになってしまいますよね.そこに混乱の元があったと思います.実は,私は,階層とは別のもう一つの次元を考えていたのです.つまり,各分野の研究方法(メソッド)の中で,分野の背景にしばられないところのメソッド,これを探求方法とよんでいるのです.これはメタ的な階層とは違います.どちらかといえば,抽象化という次元です.

たとえば,動物生態学での縄張りの求め方(メソッド)の研究に対し,その求め方の求め方という研究がメタな研究です.一方,求め方を研究するのだけれども,動物生態学に固有な方法ではなく,ボロノイ図の作り方という一般的な形で求め方(メソッド)を研究するのが計算機科学なわけです.
[0300]渡辺 治 1999-10-07 (Thu) 23:08:08

ですから,根上さんの解釈でよいのですが,上の言葉の使い方に従って言いなおすと,

>研究対象と研究方法の対で1つの研究分野ができていると考えるとして,そ
>の分野の研究方法の汎用性に気づいて,他の分野の研究分野の研究方法にも>適用できるものを生み出せると,そのメソッドが計算機科学に昇格するとい>うわけですよね.

となります.ただ,抽象化とか,汎用化というと,一段上のように見えます.実際,上の説明でも「昇格」という言葉が使われています.

でも,いつも一段上というわけではありません.計算機科学が提供する研究手法は,既存学問分野の人にとっては,「矮小化された」研究方法であったり,あるいは「ずるい」研究方法の場合も多いのです.「矮小化された」というのは,群論の話のときの根上さんからのコメントです.また,「ずるい」というのは,スパコン・コンテストの予選のときの物理学者の反応です.

でも,「矮小化された」にせよ,「ずるい」にせよ,今までの各学問分野で考えられていなかった新しい見方を提供するという意味で,新しい基礎科学になりえるのだと思うのです.(「矮小化された」の方は,単なるサブセットにすぎないのかもしれまんが.)
[0301]渡辺 治 1999-10-07 (Thu) 23:13:01

あまり先走ってもいけないので,また,今は時間がないので,「ではなぜ計算機科学なの?」というお二人の質問には,今日の夜にでもお答えします.

ただ,その前に,松井さんにお聞きしたいのですが,私の言葉の整理のもとで,松井さんの先のコメントを言いなおして頂けませんか?松井さんの言わんとしているところが,いまひとつわからないものですから.

たとえば,

>渡辺さんの視点を根上さん風に焼きなおすなら,
>「究極の仮想空間」がメソッドというイメージなのではないですか?

というあたりから,??になってしまいました.
[0302]根上 生也 1999-10-08 (Fri) 08:00:29
なかなか良い感じです.

渡辺さんの言っていることは,私も松井さんも納得できると思います.その内容は「究極の仮想空間」をキーワードとする世界観の内部で起こることとして吸収可能なので,私たちが口にしていることと矛盾はしません.

それと,「基礎科学とは,世界を認識するためのメソッドだ」というのは,気に入りました.
[0303]渡辺 治 1999-10-10 (Sun) 21:10:35

松井さんからの書きこみはまだですが,時間のあるうちに,根上さんの質問にお答えしておきます.

まずは,簡単に答えられるものから.

>疑問2
>また,いろいろな分野の上に立って研究方法を見渡すようにな高級な研究分
>野が,計算とかルールとかいう限定的で,微視的なキーワードに縛られなけ
>ればならないのでしょうか?

先にも述べたように,「抽象化」というといかにも高級そうに見えますが,アプローチが違うだけで,一段上に立っているわけではありません.「微視的なキーワード」に関しては,後で述べます.

>疑問4
>現存の計算機科学は,いろいろな研究分野に適用可能な研究方法,もしくは
>いろいろな研究方法を研究できる探究方法を提供してくれているのでしょう
>か?

これは厳しい質問です.まず,いろいろな研究分野に適用可能な研究方法を与えているか,というと,多分,ある程度は与えられるようになってきたと言えると思います.ただ,数学や物理が他分野に及ぼす影響を考えると,まだまだまだまだ...(まだの10乗)といったところでしょうか.そのためには,どんな研究をしていかなければならないか,というところも,この鼎談の話題にしたいですよね.

一方,いろいろな研究方法を研究する方法といったメタな部分の研究も,前の例にあったエキスパートシステムという考え方とか,オブジェクト指向言語の考え方など,いくつかあります.でも,こちらの方は,かなり概念的な話になってしまうので,避けたほうがよいかもしれません.
[0304]根上 生也 1999-10-11 (Mon) 04:25:40
当然といえば,当然ですが,渡辺さんは簡単な質問から答えてくれたようですね.

特に,疑問4は,答えがYESでもNOでもかまわない質問です.以前から私がよく書いているように,「現存の計算機科学がどうなのか」ということと,「どういう基礎科学が生まれてくれるか,生まれてほしいか」は,強い相関があるにしても,独立な事柄だからです.現在は,新しい基礎科学が生まれいく途中の段階なので,現在の計算機科学がその期待に応えられるほどに成熟していなくても,何も問題ではありません.

困るのは,「現在の計算機科学はこうなんだから,こういうスタイルの基礎科学を認めよ」という発想です.そういう発想に陥ってしまうと,未来が正しく見えてこなくなるので,気をつけて議論をする必要があります.
[0305]根上 生也 1999-10-11 (Mon) 04:26:40

このことに関連して,疑問2が用意されています.

渡辺さんが教えてくれた「現在の計算機科学」におけるいろいろな研究事例は,確かに「計算」や「ルール」というキーワードで表現できると思います.そういう研究が他の研究分野の研究に適用可能な抽象的なものだというのなら,そのキーワードを私たちが期待している「基礎科学」を表すもの(すべてではないにしても)として採用してもよいでしょう.でも,特に「作図の問題」などは,他の分野に適用できる抽象的な研究とは思えませんよね.

したがって,疑問2の答えは「NO」としておいたほうが無難です.
[0306]根上 生也 1999-10-11 (Mon) 04:27:13

では,それに取って代わるキーワードは?ということになりますが,私は「人とともにある究極の仮想空間」という怪しげな言葉を用意したわけです.この発想のもとでは,疑問1は意味がありません.計算機(現在のスタイルの計算機ではないかもしれない)の存在が重要で,「計算機科学」という言い続けても,何の支障もありません.

とはいえ,そのキーワードの意味をそれほど表現していないので,渡辺さんにそのイメージがうまく伝わっていなくても当然です.言葉の響きから,なんとなくやな感じがするのも理解できます.

一方,松井さんとは,渡辺さんの不在中に,テレパシーによる交信が樹立できたので(松井さん,私が夢枕に立ったのを覚えているでしょう.[本気にしない...]),松井さんの中で,いろいろな考察が展開したようです.

私のひとりよがりでもいけないので,松井さんの支持を仰ぎます.
[0307]渡辺 治 1999-10-12 (Tue) 20:46:48

う〜ん.神様(根上さん)の霊言を感じたいのですが,...

まあ,取りあえず,根上さんの質問の答えの続きをつらつらと書いてみます.それが,霊験への道だと信じて...

>疑問1
>仮に,そうだとすると,それは何で「計算機科学なの?」という疑問が湧き>ます.そういう基礎科学があってもよいと思いますが,なんで「探求科学」
>とかいう名前ではなくて,「計算機」が冠につくのでしょうか?

これは核心にふれるよい質問ですね.確かに,「探求科学」でもよさそうですし,また,学問やビジネスにおけ「処理方法」を研究するという意味で「処理科学」でもいいかもしれません.

さて,ここで今まで私が言ってきたことを思い出してください.コンピュータ・サイエンスでは,「処理」は「計算」と同義語なのです!

「計算」とは,単なる式の計算だけではないのです.メイルを出すシステムが行っていることも,文書整形ソフトが行っていることも,グラフ作成ソフトが行っていることも,ゲームソフトが行っていることも,...,すべてが「計算」なのです.つまり,一般的な感覚で言えば「処理」に相当することなのです.

ですから,「処理科学」は,計算機科学的に言えば,まさに「計算科学」となるわけです.
[0308]渡辺 治 1999-10-12 (Tue) 20:49:02

では,「計算機」というように「機」(機械)が前面に出てくるのはなぜでしょう?これには歴史的な経緯もあります.コンピュータが登場して,それを使うようになって始めて,処理=計算という概念が確立してきたからです.

でも,もう一歩踏み込んだ解釈もできます.コンピュータが登場できたのは,「すべての処理(計算)は,至極単純なルール(演算)の組み合わせで実現できる」という発見に基づいています.これを発見したのが,かの,チューリングやゲーデルなどの人たちです.(チューリングの方が,処理に直接結びつく言い方をしています.ゲーデルは,処理というよりも「証明」を前面に押し出しているので,多少,ニュアンスが異なります.)

多分,デカルトも感じていたでしょう.また,ライプニッツは近いところまで来ていたのかもしれません.でも,チューリング機械という単純なルールの組み合わせで,すべての計算(処理)が実現可能であるということを明確に示したのが,チューリングだったのです.

これがコンピュータ・サイエンスの最初の大きな発見と言ってもいいでしょう.このために,単純な命令セットだけで十分であることが確信できたのです.それが現在のコンピュータの出現につながったわけです.

このことは前に残しておいた疑問2への答えにもなっています.

>高級な研究分野が,計算とかルールとかいう限定的で,微視的なキーワード
>に縛られなければならないのでしょうか?

ここまで述べたように,基本的な命令セット,あるいは,単純なルールだけですべての「処理」を表すことができるのです.つまり,そうした,いかにも微視的なものが,実は,万能な手段だったのです.

もちろん,チューリングの議論だけでは,本当にすべての処理が実現できるとは,実感しにくにところもあります.これは,以前,私が「すべては記号で表せる」と言ったときに,根上さんが警告したことです.ゲームソフトがコンピュータ上で動くといっても,どうやって動いているのかが,ある程度わからないと,単純な命令だけで実現できているとは実感できないのは確かです.

ですから,チューリングの定式化以来,コンピュータが出現して,実際に,非常に多くの「処理」を実現してきたことが,単純な命令セットの万能性を実証してきたことになるのでしょう.その意味でも,「計算科学」ではなく,「計算機科学」が妥当なのです.
[0309]渡辺 治 1999-10-12 (Tue) 23:13:26

おっと,上の中のライプニッツは間違いかもしれません.
すべてを形式的に表そうとしたのは,クロネッカーでしたっけ?
[0310]根上 生也 1999-10-13 (Wed) 09:41:30
現在に至るまでの計算機科学を計算機科学と称することには,何も問題はありません.渡辺さんが述べてくれたとおりだと思います.「計算」というキーワードに関してよい記述がされていると思います.

でも,私の疑問1の答えにはなっていません.文書整形にしても,グラフ作成にしても,ゲームソフトにしても,いろいろな研究分野に共通な上位概念を対象とする研究にはなっていないからです.そういう例を「計算機科学」と称するのはよいですが,「探求科学」が指し示しているものではないです.

一方,疑問2に対する答えは,OKです.

なお,私の霊言(人とともにある究極の仮想空間の意味と,それが世界を認識するためのメソッドであること)は,松井さんの書き込みがあってからにします.テレパシーにて,松井さんをWebの前に,呼んでしんぜよう.
[0311]松井 知己 1999-10-14 (Thu) 13:24:40

ああっ,すいません.
ここ数日忙しくなってしまたのと,
自宅の計算機の不調で,反応が遅れました.
根上さんのおかげか,今日は計算機がなんとか動いています.

疑問2に関する渡辺さんの説明は重要かつ明解ですね.

問題は疑問1です.
私の言明も,疑問1に関わっています.
「探求方法の研究」が計算機科学だというとき,
「探求方法」は非常に広い範囲を指していますよね.
そんな広いものを統一的に扱う事ができるのでしょうか?
それは可能だ,というのが渡辺さんの主張ですよね.
なぜならば,「探求方法」は実は「計算」であり,
そして,それは計算機の中の仮想空間で実現されうるからです.
それが可能なのは,少ない命令のセットで構成されているからです.

そこで,私の主張は,「究極の仮想空間」は,
様々な探求方法を統一的に見て議論するための道具と
見たら良いのではないか,という事です.
ここまでの話の流れでは,道具と言うよりも,メソッドというべきでしょう.
これが,「究極の仮想空間がメソッド」という私の主張です.


[0312]松井 知己 1999-10-15 (Fri) 08:32:38
[人とともにある究極の仮想空間]
これは,よく分かりません.
[0313]根上 生也 1999-10-15 (Fri) 09:47:32

@.@- 霊言,ビジョンを送ります.「割り込み」だと思っていいです.

「自然科学」は,物質界,自然界,宇宙,物理空間などの言葉で表現される「世界」を認識するための「基礎科学」です.はたして物質だけを切り離して「世界」を認識することが正しい行為かどうかという疑問は残りますが,「世界」を認識する1つの段階として,「物質界」を理解するという行為は重要です.その物質界を理解し,記述するための「モデル空間」を構築するために,自然科学が動いています.

現段階で人類が獲得している「モデル空間」は未完成品でしょう.はたして人類がそこに到達できるかどうかは別として,そのモデル空間の究極形は,本物の物理空間と対等なものです.それを「究極のモデル空間」と呼ぶのもよいでしょう.

その「究極のモデル空間」が存在すると思うこと自体,幻想だと言いたい人もいるはずです.でも,そういう発言をする人は,数学における集合の極限を理解していない人です.すべてのモデル空間を包括する存在としての「究極のモデル空間」は概念的には存在可能です.

ここで私が「世界」と言っているものは,概念的な存在ではなく,実質的な存在です.しかし,人間はそれに直接接触することができません.いろいろな実験装置や観測機器を通して,間接的な接触を実現します.さらには,人間の感覚器,脳の認知システムなどを介して,人間は「世界」と間接的な接触を実現します.ただし,ここでいう「人間」は物質界の一員としての人間ではなく,「精神」とか「魂」とか「心」とか「意識」とか言ってもよいものを指しています.(それ自身ではなく,そう言ってもよいものです.)

さて,こういう人間と世界の間接的な接触という構図を考えると,はたして「物質界」は実在するのかという疑問が湧きます.あくまで,人間が受容する情報の在り様を合理的に理解するために「物質界」の実在を想定すると都合がよいだけという可能性があります.したがって,「物質界」は人間にとっては「見え」の世界と捉えておくのが妥当です.それを「形」の世界と呼んでもいいでしょう.
[0314]根上 生也 1999-10-15 (Fri) 09:48:07

@.@- ビジョン2を送ります.

こういう自然科学の発展の副産物として「計算機」が誕生しました.計算機は,当初「形」の世界を理解し,制御するための道具として使われていましたが,この世紀末のどん詰まりになって,「東方の3賢人」が計算機のそれ以上の使い方を口にするようになったのです.

それは「人とともにある究極の仮想空間」の断面を切り出して,「形」の世界に置くための装置です.

「仮想」は「実在」と対峙し,不確かな印象を与える言葉です.しかし,人間にとって,その「仮想」こそが直接体験できるものであり,人間は「仮想空間」に対して,「実在性」の不確かな「物質界」よりも実在感を感じることができます.でも,残念なことに,物質界に対する無意識的な執着や,通俗的な「言論」に翻弄されて,その実在感を感じていながらも,意識の上ではそれに気付いていない人々が多くのは事実でしょう.

いずれにせよ,仮想空間の実在性は人間とともに存在します.人間の存在がない限り,仮想空間の実在性は意味がありません.そして,すべての仮想空間を包括する極限的な存在として,「究極の仮想空間」が存在します.

それは「究極のモデル空間」と同様に概念的な存在です.では,「究極のモデル空間」が本当の「物理空間」と対等だったように,「究極の仮想空間」は何に対応するのでしょうか.それは,「形式と意味」によって司られる「世界」です.この対応関係において,「究極の仮想空間」をその「世界」を認識するための「メソッド」と捉えることができます.

その「形式と意味」の組を「言葉」と呼んでもよいでしょう.ここでいう言葉は,日本語とか英語とかのような「言語」を含みますが,「言語」よりも広い意味で使っています.「究極の仮想空間」はすべての言語を包括する「究極の言語」で語られるべきものですが,個々の「仮想空間」は個別的な「言葉」で語られることになります.この「言葉」によって司られる「仮想空間」は,人とともにあり,人の「意思」によって表面化されたものです.ここで「表面化」と言っているのは,「究極の仮想空間」の中に実在するもので,取り出しているという雰囲気を出すためです.

「計算」や「ルール」は「形式」に属すでしょう.それに人の「意思」(恣意的な「意志」ではない)によって,意味を付随させることができれば,それらは「言葉」に昇格し,実在性を伴う「仮想空間」を形成し,「究極の仮想空間」の中に位置付けられます.「形式」が生み出す「意味」は,形式が豊な階層構造を形成すると生まれる傾向にあります.(これはあくまで傾向であって,他にも「意味」を生み出すプロセスはあるでしょう.)
[0315]根上 生也 1999-10-15 (Fri) 09:49:16

@.@- ビジョン3を送ります.

こうような「究極の仮想空間」の中には,物質界の存在をほのめかす「形」の世界も含まれています.したがって,従来の自然科学を含んでいるようにも思えますが,自然科学は人とは独立に存在する「物質界」を研究対象としていることを忘れてはいけません.「物質界」を表現する「言語」の世界が「究極の仮想空間」に取り込まれているのであって,「物質界」が「究極の仮想空間」の中で実在しているわけではありません.

この構図を考えると,「既存学問分野の研究方法の探究」を,「究極の仮想空間」を対象とする「基礎科学」の1つの機能と捉えることもできます.計算機科学から生まれる新しい基礎科学の「新しさ」を機能に求めるのではなく,私は,「人とともにある」ものを対象とする点に求めるべきだと思います.(これはビジョンではなく,私個人の意見です.)

また,「究極の仮想空間」を切り出して形の世界に置くための装置としての「計算機」の存在も重要です.現存の計算機はチューリングマシンの実現物だから,「計算」というキーワードに縛られていてもしかたがありませんが,将来は「計算」とは別の発想の「切り出し装置」が登場するかもしれません.そうなったときには,「計算機」という言葉は適切ではないでしょうが,歴史的経緯からその装置を「計算機」と呼ぶ羽目になるかもしれません.(これもビジョンではなく,私個人の予言です.)

今でも,カタカナで「コンピュータ」と言えば,「計算」というニュアンスは消えかけていますね.コンピュータの動作原理は「計算」に他ならないとしても,ワープロやゲームをやっている人の頭には,「コンピュータ」という言葉はあっても,「計算」という言葉はないでしょう.

さらに,「究極の仮想空間」が人とともにあるため,個々の「仮想空間」を人間の意思とともに構築する際に,「意思」ではなく,「社会的要請」という名の恣意的な「意志」が介在してしまう危険性もあります.その危険性をうまく回避していかないと,「究極の仮想空間」への道が遠のいていきます.

@.@- ビジョンはまだまだ続くが,出力が追いつかないので,一旦,出力を停止します.ペンギンちゃんによろしく.
[0316]松井 知己 1999-10-15 (Fri) 15:05:15

うーん,ヴィジョンが大きすぎて,なかなか嚥下できない.
とりあえず,印刷して読もう.
[0317]根上 生也 1999-10-16 (Sat) 03:22:37
うーん.漢字が読めない.「嚥下」って何?
[0318]松井 知己 1999-10-16 (Sat) 04:07:00

嚥下(えんか)は,「飲み込んで消化器に送り込む事です」

で,ヴィジョン1は,きっとおまじないみたいな所だから,
とりあえず飛ばして読もう.

えと,ビジョン2はなんとなく分かりますが,
これでは,渡辺さんが言いつづけてきた,
「何でもあり」とか「構造が無い」とか「ずるい手もあり」といった
視点がすっぽ抜けてしまっている気がします.
根上さんの提示した2つの選択肢の2番目の方を
渡辺さんが選んだのに,このヴィジョンでは,
1番目を選んだように見えますよね.

今晩から九州出張なので,計算機は持って行きますが,
多分反応が鈍くなりますが,


[0319]根上 生也 1999-10-16 (Sat) 16:12:30

もちろん,私が送ったビジョンは,選択肢1の意味を表現したものです.そして,選択肢2の発想は,このビジョンの中に吸収可能です.

人間の「意思」とともに創出された形式と意味によって表現される仮想空間は,ある意味で「何でもあり」です.

それと,そもそも私は「構造がない」を支持していません.「構造がないように思われる研究対象がある」という程度の意味なら,支持しますが,それは「何でもあり」を受けた表現なので,大した意味を持たないと思います.それに,何でもありの仮想空間が治まっている究極の仮想空間の中に,構造がない仮想空間があると言い張っても,いっこうにかまいませんよ.

「ずるい手もあり」は「恣意的な意志」に対応させて考えればよいことです.
[0320]根上 生也 1999-10-16 (Sat) 16:15:42

さらに,計算機科学がメソドロジーとなりうるかどうかという議論も,現在,もしくは近未来に登場する計算機科学をそう捉えられるかどうかということであって,私のビジョンと矛盾するものではありません.
[0321]根上 生也 1999-10-16 (Sat) 16:27:02

計算機科学はメソドロジーかどうかとか,社会的要請から独立していけるかどうかといった命題の真偽の決定は,計算機科学の将来的な発展にゆだねざるを得ない問題なので,私たちがそうだ,そうじゃないと押し問答をしても,本当のところはわかりません.

一方,選択肢1に相当する私のビジョンは,そういう命題の真偽がどうであれ,そういう議論が成立する場を提供していて,時間経過に関しても不変です.

また,選択肢2を選択しても,選択肢1に関わるビジョンは生み出せないけれど,私のビジョンは,選択肢2の発想も,計算機科学の1つの発展経過として,その中に吸収してしまうことができます.というわけで,選択肢1の方が優勢なのです.
[0322]松井 知己 1999-10-17 (Sun) 22:16:01

優勢なのはいいですが,
吸収できるのでしたら,
その部分の表現が豊かになるとうれしいです.
[0323]根上 生也 1999-10-18 (Mon) 07:25:21

私自身の意見は、計算機科学がメソドロジーであるかどうかは、時代とともに変化する、相対的なものだから、それ自体を「新しさ」の要素として考えたくないというものです。また、短期的には、計算機科学的なメソドロジー的な側面が強調されていたとしても、次第に何かの構造が見えてきて、計算機科学がその構造を研究対象とする個別分野のように振る舞う時がくるとも思っています。(これは、前にも述べたような気が...)

未来永劫、計算機科学はメソドロジーでありつづけるという主張と私のビジョンは拮抗しますが、「メソドロジーかどうか」は相対的なものだという立場をとれば、私のビジョンを前提に議論することができます。

つまり、私が「吸収できる」(松井さんは今、九州ですね)と言っているのは、「他者の考えを受け入れても、自説が影響を受けない」という意味です。したがって、メソドロジーたる計算機科学が私のビジョンの中に取り込まれている様を豊かに表現するのは、私の仕事ではないように思うのですが。(きっと、ずるいと思っているでしょう。)
[0324]根上 生也 1999-10-18 (Mon) 07:40:05

@.@- 忘れないうちに、私なりの「まとめ」を書いておきます。議論を続けてかまいません。

主張N 計算機科学から生まれる基礎科学の新しさは、「人とともにある究極の仮想空間」を研究対象としているところにある。

これ自体に対する反論はあるのか?
-----------------------------------------------

主張W 計算機科学から生まれる基礎科学の新しさは、それがメソドロジー的だからである。

反論WN メソドロジーであるかどうかは研究の成熟度により変化するので、普遍的な新しさではない。

疑問WN 計算機科学は未来永劫メソドロジーでありえる、もしくはあるべきなのか?
------------------------------------------------

主張M 計算機科学から生まれる基礎科学の新しさは、社会的要請を大きく受けるところにある。

反論MN 社会的要請に引きずられているかぎり、基礎科学たる資格がない。

---------------------------------------
@.@- どんなもんでしょう。
[0325]渡辺 治 1999-10-19 (Tue) 10:41:35

うわっぁ!!

ちょっと油断しているうちに,議論が宇宙のかなたに飛んでいってしまっているーーーーーーー(内容的にではなく,量的にです.)

浦島太郎状態になってしまいましたね.ダウンロードして,電車の中でパソコン広げて読みます.(よくそういう人いますよね,最近.おおいやだ.)
[0326]根上 生也 1999-10-19 (Tue) 12:39:45

@.@- ノートパソコンって,玉手箱だったわけか.
[0327]渡辺 治 1999-10-19 (Tue) 23:25:24

はじめにロゴス(ことば)あり.(新約聖書,ヨハネ伝の冒頭)

ですね.

根上さんの霊言を読んで,私が博士論文を書いたときのことを思い出しました.あの当時,ヨハネ,アインシュタイン,ゲーデルを主人公にした三題話的な小説を書こうと思っていました.もちろん,アインシュタインは,自然界のモデルを追及しようとした人,ゲーデルは,形式世界のモデルを追及しようとした人,そして,ヨハネは,根上さんのヴィジョン2(のようなこと)を心でわかってしまった人,という設定です.

実は,もっと過激なことも考えていました.キリスト教に三位一体という宗教上の真理があります.神,キリスト,聖霊は同一なものであるという宗教上の奥義です.私は,いわゆる究極の自然空間が神,究極の仮想空間がキリスト,そしてその間の同型写像が聖霊である,という解釈を立ててみたのです.こんなことを言うと信者の方々におこられるかもしれませんが...

*正確に言うと,あの当時は,キリストはシンタックス(形式)と考えていました.そうすると,モデルである神よりには,対応できないので,困ったなと思っていました.つまり,そのときには,究極の自然空間の意味でのモデルと究極の仮想空間の意味でのモデルの区別がなかったのです.上の解釈は,根上さんのヴィジョンを反映させたものです.
[0328]渡辺 治 1999-10-19 (Tue) 23:28:57

というわけで,根上さんの説には,私も同意する部分が多いですし,お話としてもおもしろいと思います.でも,基礎科学云々を語るのに,そこまで昇華させなければならないでしょうか?

私は,計算機科学をそこまで高める必要はないと思うのです.また逆にそこまで理想化しても,実際の科学をする部分は,処理法の研究の部分を超えないと思うのです.(すくなくとも,今後100年くらいは.)

たとえば,物理でも化学でも(そして多くの数学)でも,自然界真理の探求の学問分野ですが,「真理の探求」という側面があるから基礎科学なのでしょうか?それならば,生物学でも天文学でも,およそ自然科学だったらそうですよね.

一般人が基礎科学と言ってあがめているのには,その他にも別の要因がありませんか?
[0329]渡辺 治 1999-10-19 (Tue) 23:47:19

話が先に進まないうちに,根上さんのまとめにも答えておきます.

>主張N 計算機科学から生まれる基礎科学の新しさは、「人とともにある究
>極の仮想空間」を研究対象としているところにある。
>これ自体に対する反論はあるのか?

上にも述べたように「美しい」とは思いますが,そこまで高める必要があるのでしょうか?

-----------------------------------------------

>主張W 計算機科学から生まれる基礎科学の新しさは、それがメソドロジー
>的だからである。

微妙な言いまわしですね.前に整理した用語の使い方によれば,「メソドロジー」には,研究方法の研究というメタな意味がありました.私の主張は,メタな方向ではなく,「独立性」と「共通性」という方向です.つまり,

主張W 計算機科学から生まれる基礎科学の新しさは,それが,既存の学問分野にしばられない共通の処理方法の研究を目指している点である.またその点が,「基礎」と呼ばれるのに値する点である.

>反論WN メソドロジーであるかどうかは研究の成熟度により変化するの
>で、普遍的な新しさではない。

メタだから新しいということになれば,それは確かにそうです.ですから,メタ性を主張しているわけではありません.

もちろん,根上さんの究極の仮想空間の科学というヴィジョンは,私のこの主張を包含する世界を提供してくれます.ただ,私は,そこまで手を広げる必要があるのかが疑問です.

>主張M 計算機科学から生まれる基礎科学の新しさは、社会的要請を大きく
>受けるところにある。

>反論MN 社会的要請に引きずられているかぎり、基礎科学たる資格がな
>い。

確かに引きずられるのはよくないですが,考慮に入れるのは重要です.授業なので,また後で.

[0330]根上 生也 1999-10-20 (Wed) 03:22:43

現実に行われている計算機科学,もしくはここ100年の近未来の計算機科学が渡辺さんの述べているようなスタイルを維持していること自体は,そうだとしてもかまいませんが,それだけのビジョンで基礎科学を語ってしまうと,以前,松井さんが引用していたファインマンの言葉のように,「計算機科学は科学ではない」という批判を受けてしまうでのはないですか.

現状は,発展途上なので,そういう批判を受けても仕方がないが,その発展の究極の状態として,こんなことを想定しうるから,基礎科学になりえるのだ,という形の主張をすべきだと,私は思います.

そうてないと,渡辺さんが言っている「独立性」や「共通性」が怪しい言葉になってしまいますよ.現状の計算機科学が,他の分野の人からも利用したいものになっているのでしょうか? 私にはそうは思えない,もしくは,まだそういう例を見せてもらえていないと思います.となると,「独立性」や「共通性」は,私のビジョンどうように,希望的観測になってしいます.
[0331]根上 生也 1999-10-20 (Wed) 03:30:30
それと,三位一体の話ですが,ここまでの私流の議論でいると,キリストが「形式」で,神が「意味」だと思います.神の存在と形式がシンクロすることで,「言葉」が生まれます.

そもそも,私が『第三の理』の著者であることを考えると,実は,いろいろな言わずに小出しにしていることがあることが理解できると思います.ここまで,あえて,私の中にある真実のビジョンを語らずにいました.そして,「矮小化」したビジョンをたびたび提示してきたわけです.皆さんの反撃は,その矮小化されたものの不十分さを敏感に感じた結果のものが多かったと思います.私にしてみれば,予想どおりだったのですが.

そろそろ,隠し持っているものをすべて公開して,最終決戦をする時期だと思います.みなさんも隠し持っているものを公開してください.その上で,共通項や,真偽の判定を未来に委ねざるをえないものなどを明らかにしていきましょう.
[0332]渡辺 治 1999-10-20 (Wed) 05:55:29

これは雑談です.(わき道の話です.)

>それと,三位一体の話ですが,ここまでの私流の議論でいると,キリストが
>「形式」で,神が「意味」だと思います.神の存在と形式がシンクロするこ
>とで,「言葉」が生まれます.

これは,私が昔考えていた通りの考え方です.つまり,キリストが syntax,神が semantics,そして,syntax から semantics への写像が聖霊です.よく聖書に「聖霊に満たされて云々」というフレーズが出てきますが,これは,多分,syntax と semantics につながりができた(ということを直観した)ということのように読めます.「悟りを開いた」というのも同じようなことです.でも,syntax は semantics より真に弱いので,この解釈だと三位一体にはならないのですがねぇ.

>そろそろ,隠し持っているものをすべて公開して,最終決戦をする時期だと
>思います.みなさんも隠し持っているものを公開してください.

最終決戦とは,おそろしか.まあ,今夜,少し力を入れて書いてみます.
[0333]渡辺 治 1999-10-20 (Wed) 13:32:09

さて,少し力を入れて書くとして,その題材に,以前の疑問3を選びます.

>疑問3
>以前も書きましたが,計算機科学者はいろいろな分野のことに感心があるの
>ですか?

前から答えようとは思っていたのですが,少々長くなるので,先延ばしにしていました.これはまた,根上さんの

[0330]
>現状の計算機科学が,他の分野の人からも利用したいものになっているので>しょうか?...まだそういう例を見せてもらえていないと思います.

に対する答えでもあります.
[0334]渡辺 治 1999-10-20 (Wed) 13:34:03

さて,「計算機科学者はいろいろな分野のことに関心があるのか?」に対しての答えは Yes です.「計算」の持つ万能性に目覚めた人々が,それをいろいろな分野に適応させてみたくなるのは当然といえば当然でしょう.

少し長くなりますが,いくつか例をあげてみましょう.(具体性を出すために実名を入れておきます.)

まずは,すでにかなり計算機科学が浸透した領域からはじめましょう.

例1.暗号学
今でこそ,セキュリティはコンピュータの基礎技術となり,暗号の研究も,計算機科学の一分野と思われるようになってきました.しかし,本来は,暗号は通信理論,符号理論の分野でした.それに対し,公開鍵暗号などを提案し,「計算論的」暗号理論という分野を作ったのは,計算機科学者です.最近では,整数論の研究者も深くかかわるようになってきましたが,その橋渡しをしたのは,計算機科学者だったのです.(数学者は,暗号などということは考えもしなかったでしょう.実際,整数論が暗号にかかわっているのを嘆いている整数論の研究者もいますよね.)

例2.言語学
プログラミング言語のような人工的な言語でなく,日本語や英語などの,いわゆる自然言語の研究です.元々は自動翻訳などの研究から,計算機科学者が言語学に頭を突っ込み出したのです.しかし,辞書の形式化などを通じて,計算機科学の研究手法が,この分野を大きく変えました.
 自動翻訳のための電子辞書は,普通の辞書を作るより,はるかに多くのことを考えなければなりません.そのために,データ量も莫大になります.それをうまく表現するための研究が進み,その研究から得られた言語の見方が,言語学の研究に大きな影響を及ぼすようになってきたのです.
 たとえば,最近感銘を受けた研究の中に,京大の黒橋さんは,「の」の用法についての新しい解釈があります.「の」の用法の分類は,非常に複雑だったのですが,自動翻訳の研究の過程で,辞書中の単語の定義のされかたを解析した結果,かなり明快なルールで説明できることがわかったのです.

この二つの例は,「計算」のアルゴリズミックな側面(例1)と表現手法としての側面(例2)の例という意味でも対称的ですね.
[0335]渡辺 治 1999-10-20 (Wed) 13:35:41

つぎに,現在進行形の研究の例をあげます.

例3.生物学
人ゲノムプロジェクトというのを聞かれたことがあると思います.人の遺伝子情報を解明しようというプロジェクトです.これには,多数の計算機科学者が参加しています.ただ単に道具としてのシステムを提供するだけではなく,解析手法にかかわる研究をしている方もいます.たとえば,宮野悟さんなどは,我々と同じ計算量理論の研究者だったのですが(まあ,今でも一面はそうですが),これにどっぷりつかっていて,今では,東大の医科学研究所の教授になっています.
 一方,生体の機能そのものを計算システムとみて,計算論的に解明しようという試みもあります.つまり,「計算論的」生物学の試みです.たとえば,慶応の富田勝さんは,細胞をまるとごコンピュータ上に実現し(解析し)ようという研究に取り組んでいます.(彼はそのために医学部に入りなおしました.)
 ささやかですが,我々のグループでも,脳の機能を計算論的に解明する研究をしています.私がやろうと言い出したのですが,最近は,博士課程の山崎さんが,頑張ってやっています.脳機能の理論的な研究は,物理の人も多く参入しているのですが,我々のアプローチは,それとは大きく違います.

例4.データ解析(統計学)
最近,データマイニングという研究テーマが計算機科学の中で話題になっています.大量のデータを解析し,その中に埋もれている有用な情報を掘り当てよう(マイニングしよう)という研究です.これも,従来は,統計学の分野でしょう.でも,計算幾何学や計算論的学習理論で開発されたアルゴリズムの中に,とてもうまく働くものがあることがわかってきて,俄然,注目を集めるようになりました.実は,私も最近,これにどっぷりつかっています.
[0336]渡辺 治 1999-10-20 (Wed) 13:37:08

さらに近い将来,出てきそうな分野についても述べておきましょう.

例5.経済学,社会学
経済や社会の動向を計算論的に解析しようという研究です.たとえば,1万人からなる社会を,各個人があるルール(プログラム)に従って動く並列計算機システムとみて,その並列計算機システムの挙動を解析することによって,個人の特性と社会の動向を調べようというアプローチです.
 これは松井さんの方が詳しいでしょうが,ゲーム理論という分野があります.確かに重要な学問ですが,計算機科学的に見ると気持ちが悪い部分があります.均衡点に進むプロセス(計算)についての議論がないからです.こういった部分にも,計算論的なアプローチがなされとおもしろいでしょう.

このように見てくると,計算機科学者は,かなりいろいろなところに関心を持っていることがわかると思います.(もちろん,そうでない人もいますが.)数学や物理学の人にも,そういった他分野へ出て行って,その中で,数学や物理学をやっている人も大勢いるでしょう.でも,計算機科学者(計算機技術者ではない)の数に比べると,数学者や物理学者(含:その予備軍)の母集団は,はるかに大きいと思います.ですから割合にしたら,計算機科学の方がずっと大きいと思います.
[0337]渡辺 治 1999-10-20 (Wed) 13:43:22

では,なぜ,計算機科学者が他分野へ目を向けたくなるのか?それは,まさに「計算」の万能性にあるのです.ある意味で(あるいは仮想世界で考えれば),すべてのことを「計算」として表すことができるからです.

ですから,何でも「計算論的」に見たくなるのでしょう.大げさかもしれませんが,自然科学全体が哲学と言われていた中世のころの,科学者の態度に通じるものがあるような気さえします.

では,こうした様々な分野での計算機科学的の重要性はなにか?(逆にいえば,分野から独立している計算機科学的な課題とは何か?)それは,数(量)です.莫大な計算時間,多量のデータ,多人数からなるシステム,などなど,すべて「多量さ」との勝負なのです.

今までの科学の観点からすると,この「量への対処」は技術でした.しかし,私は,そこに新しい科学があるのだ,と主張したいのです.つまり,ファインマンさん,誤解ですよ,と言いたいのです.

根上さんも「17回を16回にするのは科学ではない」という趣旨のことを言われました.確かに,1回の差は,そうかもしれません.でも,1億回かかるものを100回ですませるには,問題の本質を見抜く必要があるかもしれないのです.あるいは,10個のものを扱うのは簡単だけれども,それが100億個になった場合には,「同様に」ではすませられないかもしれないのです.10個のときには気がつかなかった問題の本質を捉えないかぎり,100億個は扱えないかもしれないのです.

大分長くなりましたね.ご静聴ありがとうございました :-)
[0338]松井 知己 1999-10-21 (Thu) 09:57:40

渡辺さんから,大量の情報が流れて来ましたね.
ここでも「量への対処」が必要なのか!

>主張M 計算機科学から生まれる基礎科学の新しさは、
>社会的要請を大きく受けるところにある。

これは,成り立たないでしょうね.
私も主張するつもりはありません.
そういう傾向があることに注意を喚起したかったのです.
[0339]松井 知己 1999-10-21 (Thu) 10:09:00

私は,渡辺さんの
>そこまで昇華させなければならないでしょうか?
という意見に賛成です.

>現状は,発展途上なので,そういう批判を受けても仕方がないが,
>その発展の究極の状態として,こんなことを想定しうるから,
>基礎科学になりえるのだ,という形の主張をすべきだと,私は思います.
「究極の仮想空間」に関する議論から,
「実際に始めるときにどんな講義を組んだらいいのか」
といった具体的な議論をするのは
ギャップがあるのではないですか?
基礎科学として「新しく」出現するのならば,
発展の状態でも,批判だけでなく,
重要な意義が主張できるべきだと考えます.

という事で,
>疑問3
>以前も書きましたが,計算機科学者はいろいろな分野のことに
>感心があるのですか?
という話題に入り込む時がやってきたのだと理解しています.

[0340]根上 生也 1999-10-21 (Thu) 13:18:20
まあ,いいですよ.
近未来的なところで話をしましょう.

渡辺さんは疑問3の答えをYESとして上で,いろいろな例を示してくれたわけですが,松井さんはその「YES」に納得していますか?

私は,計算機科学者個人の興味関心の広さではなくて,計算機科学者像の中に他分野に対する関心の広さが含まれているのか,という疑問を提示してきました.私の中では,疑問3の答えをNOとした上で,渡辺さんの示してくれた例を考えたほうが筋が通るのですが.
[0341]根上 生也 1999-10-23 (Sat) 09:36:32

ところで,今更誤解を解く気にもなれないのですが,念のため,書いておきます.

私は「16回と17回」の話は,共通の数学的原理に従って記述できる現象なので,その差を議論することにどういう意味があるのか,疑問だということを言っていて,渡辺さんの陳述はその疑問に対する答えになっていないと思っています.そういう問題の研究が「科学かどうか」は問題外です.

問題を記述する数学的構造を変更することで,問題解決の手数が大幅に変わるといった趣旨なら理解できますが,同じ構造を表すパラメータを変えると,一方は100で,他方が100億になるということでしかないなら,私のセンスでは,大差ないと思います.

はたして,このセンスが理解されているのでしょうか?

同意するかどうかは別として,理解されないのだとすると,この議論を続けるのは不毛です.愚痴だと思って,聞き流してください.
[0342]渡辺 治 1999-10-25 (Mon) 12:18:42

根上さんの言われていることが今,ひとつわからないので,確認させてください.(それに,これは,無視して通ることのできない点でもあるので.

>問題を記述する数学的構造を変更することで,問題解決の手数が大幅に変わ>るといった趣旨なら理解できますが,

これは,「問題の数学的構造が変化するために問題解決の手数が大幅に変わる」というのと同じ意味でしょうか?それならば,私が言いたかったことなのですが.
[0343]根上 生也 1999-10-26 (Tue) 05:58:41
たとえば,1からnまでの自然数の総和を計算する問題を考えていたとしましょう.素朴なアルゴリズム(アルゴリズム Aと呼びます)では,手数は O(n)ですよね.具体的な数を出したいので,手数を n であるとしていましょう.一方,総和の公式n(n+1)/2を利用すれば(アルゴリズム Bと呼びます),3手でできます.

アルゴリズムAとBでは,手数を評価する数学的構造が違います,n = 100の場合とn = 1,000,000の場合,アルゴリズムAだと,手数も100と1,000,000となって,数の上では,大きな違いだけれど,これは私は大差ないと思うといっているのです.

一方,アルゴリズムAをBに変えたことで,1,000,000手掛かることが,3手になってします.これは大きいことです.

こんな話は渡辺さんなら重々承知のことでしょう.

「16手と17手」の作図の問題は,同じ定理におけるパラメータの違いによって,手数が変わるだけなんで,私が大差ないといっている前者(同じアルゴリズムを使っている方)と同じことです.

渡辺さんは「問題の数学的構造が変化するために問題解決の手数が大幅に変わる」と言っていますが,言葉の上では,私も同じ考えです.でも,渡辺さんとのやりとりで,渡辺さんは,パラメータが違うだけで数学的構造が変化したと考えているふしがあるのですが,違いますか? 違うとする,私には渡辺さんの言動が理解できません.

[0344]渡辺 治 1999-10-26 (Tue) 12:33:22

>でも,渡辺さんとのやりとりで,渡辺さんは,パラメータが違うだけで数学
>的構造が変化したと考えているふしがあるのですが,違いますか?

まさにその通りです.つまり,私が言いたかったのは,パラメータ値の微妙な違いにより,数学的な構造が大きく変化する場合もある,と言いたかったのです.たとえば,角を二等分するときと三等分する作図問題とでは,単にパラメータが違うだけのように思えますが,問題の数学的な構造が大きく違うために,問題の困難さがまったく違ってしまうのです.その点を言いたかったのですが...作図の比喩が悪かったのかもしれませんね. 
[0345]根上 生也 1999-10-27 (Wed) 11:39:24

ますます,わけがわからなくなりました.私はパラメータの違いとして吸収されてしまうことは,構造は同じと解釈したいのですが.

たとえば,角の二等分と三等分は,三角関数の2倍角の公式と3倍角の公式がそれぞれ2のべき乗の多項式か,そうでないかに依存して,作図が可能だたり,不可能だったりすのです.これをパラメータの違いと見るべきなのでしょうか.2倍角の公式と3倍角の公式の構造の違いが,作図可能性について,決定的な違いを生んでいるのです.

一方,「16回と17回」の話は,渡辺さんが教えてくれたように,パラメータnを伴うまったく同じ構造の命題によって,手数が評価されています.そのnに16を入れるか,17を入れるかで,d(n)だったかの値が変化するのでしたよね.これをパラメータによって構造が大きく変化したと思うのでしょうか?(いろいろと陳述されると,はぐらかされてしまそうなので,YesかNoでこの質問に答えてください.)
[0346]松井 知己 1999-10-31 (Sun) 06:21:10

会話がかなり細かい部分に入り込んでますね.
今,次の話に行くと混乱しそうなので, 
 私も,渡辺さんの返事を待つことにします.
[0347]根上 生也 1999-10-31 (Sun) 14:26:21

いや,いや.そもそも渡辺さんが私の愚痴に付き合ってくれただけなので,私としては,この話は無視してもかまいません.(渡辺さんがフリーズしているみただし...)

次の話は,「計算機科学者はいろいろな分野のことに感心があるのですか?」でしたっけ.多少,そういう話も始まっていましたよね.
[0348]渡辺 治 1999-11-01 (Mon) 00:21:45

欠番
[0349]渡辺 治 1999-11-01 (Mon) 00:47:39

>一方,「16回と17回」の話は,渡辺さんが教えてくれたように,パラ
>メータnを伴うまったく同じ構造の命題によって,手数が評価されていま
>す.そのnに16を入れるか,17を入れるかで,d(n)だったかの値が変化
>するのでしたよね.

回路の段数のときの説明のことを言っているのですね.はい,Yes です.

>これをパラメータによって構造が大きく変化したと思う
>のでしょうか?

大きく変化するかもしれないし,単なるパラメータの違いだけかもしれません.すみませんが,Yes/No だけでは,説明しきれないので,補足させてください.

確かに,以前,例として,回路の段数に関する計算の特徴付けでは,16段と17段の回路の違いは,d(16) 次と d(17) 次の多項式の違いに相当する,と述べました.その段階では,ただの次数の違いだけ(パラメータの違いだけ)のようにも思えます.でも,もしかすると,d(16) 次と d(17) 次の多項式の間には,本質的な違いがあるかもしれないのです.ちょうど,二倍角と三倍角の公式の違いのように.そして,もしかすると,ある問題を解くには,その本質的な違いが重要になるのかもしれません.

あるいは,d(16) 次と d(17) 次は,大して違わないのかもしれません.つまり,パラメータの増加による違いだけなのかもしれません.でも,今のところ,どこにそのような本質的な違いが出てくるのかもよくわかっていないのです.
[0350]根上 生也 1999-11-01 (Mon) 07:41:54
よく「もしかすると、...かもしれない」と言って反論する人がいますが、そういう主張は意味がないと思います。経験科学的な態度をとるならば、「多項式の次数の違い」までにとどめておくべきで、「もしかすると、構造の違いがあるかもしれない」という主張はいただけません。

また、角の二等分と三等分の作図可能性もしくは不可能性は、「二倍角と三倍角の公式」という構造の差異として理解できるわけですが、その構造の差異とて、多項式の平方根による可解性というより上位の概念(または構造)から眺めると、パラメータの差異程度の感覚でとらえることもできます。

つまり、パラメータの差異なのか、構造の差異なのかは、いろいろな概念や構造が作る階層構造のどの位置から眺めるかによって、決定される相対的な事象です。以前は、階層構造のイメージがわかるように、単なるデータ構造の階層を引き合いに出しましたが、価値や意味や、それらの相互の優位性などを生み出すために、階層構造の存在が必要だというのが、私の主張です。

で、渡辺さんの議論の背後にあるビジョンを探るために、あえて角の二等分と三等分は楮運差異、d(n)の話はパラメータの差異と断定的に言い切って、「YESかNOで答えよ」という質問を迫ってみたのでした。「かもしれない論法」以外の策がないのなら、この話は打ち切った方が賢明でしょう。局地戦的な論争に陥らないためにも。

というわけで、松井さんの登場を期待します。
[0351]渡辺 治 1999-11-01 (Mon) 10:06:13

本質的に違うように見えても,見る立場が違えば,単なる
パラメータの違いに程度の差にしか見えないこともある,
ということですよね.

それとまったく逆に,一見すると,単にパラメータの違い
にしか見えないことでも,本質的なギャップになっている
場合もあるわけです.

さすがに,アルゴリズムを固定して,サイズによる手数の
違いを議論する限りにおいては,パラメータ以上の違いは
出てこないでしょう.でも,問題を議論する場合には,単
なるパラメータ的な違いでも,本質的なギャップになって
いる場合がある,ということを言いたかったのです.(そ
れをさらに上から見ると,また,単なるパラメータの違い
になっているかもしれませんが.)

まあ,根上さんも同じようなことを言われているようです
ので,この話は,これで終りにしてよいと思います.
[0352]渡辺 治 1999-11-02 (Tue) 05:32:58

というわけで,松井さん,出番です!
[0353]松井 知己 1999-11-03 (Wed) 13:20:03

ちょっと,明日まで待って下さい.
[0354]松井 知己 1999-11-04 (Thu) 15:06:08

さて,「計算機科学者像の中に,
他分野に対する関心の広さが含まれているのか?」ですね.
私の思い描く像は「広くありたい」です.
多くの人はそう答えるでしょう.

話すべき事は,2点ある気がします.
(1)現在,多くの計算機科学者はどう思っているのか?
(2)「広くあらねばばならない」が正解か?

(2)について,私の専門の話を少ししたいと思います.
私の専門のオペレーションズ・リサーチ(OR)は
「問題解決の学問」を標榜しています.
問題解決が原動力であるため,
問題のあるところ(分野)に研究者が自ら移動します.
そのためORの研究者は,
他分野に対する関心の広くあらねばなりません.
逆に多くの問題に首を突っ込むため,
ORは便利な道具の詰めこまれている道具箱とも呼ばれ,
それは「学問」にまだ至ってない悪い印象を与える事もあります.
境界領域学問という呼び方もされましたが,
隙間産業ようなイメージに取られる事もあるようです.

「計算機は便利な道具であり,計算機科学は便利な道具箱」
と思われている現状は,現在ORがいる位置と非常に似ています.
もちろんORは,基礎科学とは違います.
OR野研究者の多くは,
(程度の差はあるにせよ)他にも自分の分野を持っています.
例えば私が,
アルゴリズムと組合せ理論にも少しずつ顔を出すようなものです.
取り扱う問題が異なる時は,
ORの研究者間でも語り合うのは非常に困難を伴います.
各問題毎の研究者同士が語り合うのが可能なのは,
使うメソッドが同じ時です.

話が長くなりましたが,
他分野に関心を広く持ち,それに入り込む研究者が多いとき,
計算機科学の求心力というのは何でしょうか?
計算機科学としての求心力無しには,
いつまでたっても,「計算機科学は便利な道具箱」でしか無いですよね.
「興味を広く持つ研究者」は,
個人の研究者像としてかまいませんが,
分野としてはまとまりを欠く集団になり易いですよね.
[0355]根上 生也 1999-11-05 (Fri) 04:27:48

最後の部分は,私もそう思います。
[0356]渡辺 治 1999-11-06 (Sat) 06:14:25
そうですね.求心力を持つためには,多分,「科学」の部分が必要なのですよね.

私が言ってきたのは,コンピュータ・サイエンスは,これからの多くの学問の,とくに人工的な生成物に対する諸問題に対処していくための「基礎」になるという点でした.「基礎なのはわかったけど,でも,科学なの?」ということについては,ほとんど何も言ってこなかったかもしれません.

根上さんが究極の仮想空間の研究の話を持ち出したのは,その「科学」の部分を議論したかったからかもしれませんね.つまり,「基礎学問」から「基礎科学」に進化するための議論が必要ということでしょうか?
[0357]根上 生也 1999-11-06 (Sat) 16:13:22
私にとって「基礎学問」と「基礎科学」は大差ありません。「究極の仮想空間」を持ち出したのは,計算機科学の有り様を項目的もしくが,性質を挙げることで特徴づけるのではなくて,1つのビジョンの下で語ろうとしたからです。

松井さんが懸念するところの「求心力の欠如」というのは,計算機科学者の特性として「いろいろな分野に関心を持つ」を挙げてしまうと,結局のところ,計算機科学がいろいろな分野の研究者の寄り合い所帯のようなものに成り下がってしまいそうだからではないでしょうか。

少なくとも,私が同意したことには,そんな意味が含まれています。

私が思うところの計算機科学者像(現存の個々の計算機科学者ではない)は,いろいろな分野のことなんかには大して関心はないけれど,抽象的で論理的な議論を得意としていて,すごく一般的は枠組みで(それを何でもありというのでは?)設定された問題を,計算もしくはそれを発展させた考え方で眺めて,解決してくれる人です。

その解決された内容が一般的なので,他の分野でも利用ができるから,みんなが基礎科学,もしくは基礎学問と呼んでくれるわけです。

基礎学問と基礎科学って,どう違うのですか?
[0358]松井 知己 1999-11-10 (Wed) 13:02:34

反応が遅くてすいません.
学会の辞典編纂や,学科の外部評価の仕事があって,
家にも帰れなかったのです.
しくしく‥.

根上さんの言う計算機科学者像の
「いろいろな分野の事なんかには大して関心は無いけど」
というところは,私は違うイメージを持っています.
どちらかと言えば,
「常にいろんな分野に関心を持っている」という方ですね.
ただ,個々の問題や分野に縛られることなく,
一般的な枠組みで問題を捉え,解決していくという
といういのは,同感です.
根上さんの持つ研究者像では,
問題がどこかから降ってくるのを待っているように聞こえるのですが,
そういうイメージを持ってらっしゃるのでしょうか?

工学部で言われる,数学者の悪口に,
「数学者は,問題を説明して理解してくれれば,
あっという間に解いてくれるが,
自分では問題を作れない.」ってのがありますが,
根上さんの書き方だと,まるで,そんな風に読み取れます.

求心力については,まとまる必要があるのか?
という発想もあると思います.
情報科学という学問自体が,今までの他の学問より,
もっと分散した学問になるのだという考え方もありますよね.
「多声的」とか「多元的」とかいう単語を使って,
議論している人達もいるようですが.
そういう考え方については,如何にお考えですか?
[0359]根上 生也 1999-11-11 (Thu) 07:19:37
工学部の人がそういう悪口を言うのは理解できますが,それに悪口で返すならば,「数学者は山ほど問題を作るし,解けない問題もたくさん抱えているけれど,工学部的な視点ではそれが認知できないだけ」です。

「あっという間に解いてくれる問題」というのは,私たちは「エクササイズ」と言っていて,そういう問題をいくら解いても,全然えばれません。また,「エクササイズ」でない問題は,その問題自体を理解するのが素人には難しいので,あまり一般には公開されていないと思います。

それに,数学者の中では,数学において「いかに問題を作るかが勝負だ」とさえ言われています。単に問題を1つ考え出すといよりも,問題を解決していく過程で,新たな問題が生まれたり,解決に使った方法が,逆に答えとなるような問題は何かと考えたり,問題を生み出す方法はいろいろとあります。そういう絶えず問題を抱えていられる状態が,研究者にとって一番よいことです。

でも,そういう姿は,専門家以外の人の目に触れることは少ないでしょう。したがって,工学部の人が「数学者は問題が作れない」と思っていても,不思議ではありません。

それに,数学者が作った問題を「そんなことを考えてどうするの?」という態度でした受け入れてくれない人たちもいます。そういう態度を貫けば,いくら数学者が問題を作ったところで,「問題を作れない」と判定することになるでしょう。

というわけで,工学部の数学者に対する悪口は,認識不足に起因しています。もちろん,自分たちの本当の姿を表に出さないという数学者の怠慢も原因してはいることですが。(そういう反省から,私は「第三の理」のような本を書いたりしているわけです。この鼎談の中でも,大多数の人が思っている数学観,もしくは数学者像を押し付けられたりもしたなぁ。多くの人がどう思っているかと,実際はどうかを混同されることは,多いですよね。)

で,ここで述べた数学を「計算機科学」に置き換えると,松井さんの私に対する質問の答えになっていると思います。「計算機科学」を数学のうちに取り込むという野望はいったん中止するとして,計算機科学者は彼らなりの独自の抽象世界を作り上げて,そこでの問題を考えているのだと思います。

抽象世界での問題探しは,傍目には,どこかから降ってくるのを待っているように見えるでしょう。でも,そのどこから降ってくるのをじっと待つ能力,また,降ってきた瞬間を逃さない能力というのがあって,それが計算機科学者(数学者でもよい)の質を決めるのだと思います。

そういう抽象世界で問題を探すという特殊能力は,いろいろな分野に関心を持っているという特性とは独立だと思います。私の計算機科学者像の中では,いろいろな分野に関心を持っていて(ここまでは,個人としては尊敬できる),そこからその共通項を探したり,抽象化したりして問題を作ってりる人は二流です。

一流の計算機科学者は,初めから抽象的な問題を設定できて,独自の方法で解決できる人です。さらに,その結果が,いろいろな分野に応用されて,その分野に新しい視点や研究方法を生み出すことになれば,最高です。

その人は,「究極の仮想空間」を対象に「科学」できる人なわけですが,「究極の仮想空間」の部分として,自然界や実社会のモデル空間が存在しているので,結果的にその人の研究成果が,実用的な問題にも適用できるという仕組みなのですが。。。

「多声的」(初めて聞く単語です)や「多元的」という形容は,現状の計算機科学をよく表しているのでしょうが,それは悪くいえば,「寄り合い所帯」ということですよね。新しい基礎科学が生まれる前段階として,カオス的になっているのであって,その状態を正当化すべきではないと思います。私たちが結論したいのは,「計算機科学は基礎科学だ」ではなくて,「計算機科学から基礎科学が生まれる」です。

もちろん,いろいろな分野の人が「コンピュータ」というキーワードでネットワークを作っていくこと自体は歓迎ですが,それ自体を「基礎科学」とは呼びたくありません。そのネットワークを高い位置から見て研究するというよりも,その上空に浮いていて,さらに天を見上げて研究している人間が私のイメージする計算機科学者像です。

以前と同様に,そこまで高める必要はないでしょうか?

[0360]松井 知己 1999-11-12 (Fri) 00:26:39

うーん,悪口書いたら,悪口でかえされちゃったな...
すいません.

根上さんが自分で(数学者でも良い)と書いていますが,
根上さんの描く理想の計算機科学者像は,
(根上さんの描く)理想の数学者像と同じなのですか?
[0361]渡辺 治 1999-11-12 (Fri) 04:55:58

割り込んですみません.私は根上さんの次の見解に全面的に同意します.

>一流の計算機科学者は,初めから抽象的な問題を設定できて,独自の方法で
>解決できる人です。さらに,その結果が,いろいろな分野に応用されて,そ
>の分野に新しい視点や研究方法を生み出すことになれば,最高です。

まさにその通りだと思います.(私の説明はあまりにもボトムアップでしたね.)

でも,その抽象的な核心をつく問題を議論する空間が,究極の仮想空間である必要があるでしょうか?そこまで考えなくても,一見,シンタクティックに見える世界でも,十分核心をつく議論ができる,といいたかったのです.
[0362]根上 生也 1999-11-12 (Fri) 07:00:45

まず,松井さんの質問に対する答えから。

私が描いた理想的な計算機科学者像は,「究極の仮想空間を対象とする」ということを除けば,理想的な数学者像と同じです。だから,やりようによっては,計算機科学を数学のうちにとりこむことができるのです。たとえば,「究極の仮想空間を対象とする新しい数学」と宣言してしまえばいいわけだし。(でも,それはしないでおいてあげると宣言済みです。)では,数学者は何を対象とするのかと問われそうですが,それはそのうち。

次に,渡辺さんの質問に対しての答え。

実は,その答えはすでに述べていますよ。私のビジョンの下ですべてを語ることはできますが,それは保留して,近未来的なところで議論をしましょうと譲歩したではありませんか。

ところで,「シンタクティックに見える世界」とは何のことですか?単に,言葉の意味を教えてください。それが分からないと,それが十分に核心をつく議論の材料になるのかどうか,判定できません。
[0363]渡辺 治 1999-11-16 (Tue) 02:29:31

シンタックスとは形式ということです.つまり,「シンタクティックな世界」とは,単に形式的な議論,たとえば,式の変形とか,論理の計算とか,そういった,記号的な操作だけで議論される世界のことです.

根上さんの「矮小化された」に通じる,少し,低くみた感じの言い方です.
[0364]渡辺 治 1999-11-16 (Tue) 02:47:06

私の次の発言をもう少し補足させてください.

>その抽象的な核心をつく問題を議論する空間が,究極の仮想空間である必要
>があるでしょうか?そこまで考えなくても,一見,シンタクティックに見え
>る世界でも,十分核心をつく議論ができる,といいたかったのです.

正確には,「シンタクテッィクに見える世界」ではなく,本当に「シンタクッテッィクな世界」でした.そういった形式の上の世界は,一見すると「矮小化された」世界のようですが,そうでもないですよ,ということです.

たとえば,再び計算の複雑さの理論に戻りましょう.今,話題になっているテーマのひとつに,「ランダム性が本質的か?」というのがあります.計算の実行中に乱数を使うと,非常に高い確率で,効率よく問題を解いてしまうアルゴリズムがあります.そういうアルゴリズムは,ランダマイズド・アルゴリズムと呼ばれていて,いろいろな問題に対して,非常に効率のよいランダマイズド・アルゴリズムが提案されています.

そうした問題の中には,乱数を使わないと,効率よく解けそうもないような問題もあります.では,ランダム性を利用することが,計算の効率化にとって本質的なのでしょうか?これは「計算」というものの核心に迫る重要な疑問だと思います.しかし,この疑問自体は,「random というコマンドを使ってプログラムを作るのと,使わないでプログラムを作るのに,どれだけ違いが出るか?」という非常にシンタクティックな疑問です.(ここでは,random は,巷で使われている擬似乱数発生用コマンドではなく,本物の 0 か 1 の乱数発生コマンドだとします.)

比ゆ的に言えば,このルールで世界を作るのと,こちらのルールで世界を作るのと,本質的に違いが出るか?といったことです.あくまで,ルールの差なのですから,シンタクテッィクな議論といえるでしょう.この議論の背後に自然の真理があるとは思えません.でも,だからといって,自然の真理を語る議論に比べて,「矮小化された」疑問ではないと言いたいのです.
[0365]根上 生也 1999-11-16 (Tue) 05:01:14

ランダマイズド・アルゴリズムの問題は,対象が「シンタクティック」なのであって,問題自体は「シンタクティック」ではないと思います。だからこそ,面白いのでしょう。

また,真理は「自然」の中にだけあるのでありませんよ。もちろん,「自然」が指すものが何かにもよりますが,数学が探求している真理は「自然界」の真理にはどどまりません。計算機科学だって同じではないですか。
[0366]松井 知己 1999-11-17 (Wed) 09:21:23

>「究極の仮想空間」の部分として,自然界や実社会のモデル空間が存在しているので,結果的にその人の研究成果が,実用的な問題にも適用できるという仕組みです.

ううむ,これは私のやっている事とは違うな.
自分が工学をやっているって事を,良く理解しました.





[0367]松井 知己 1999-11-17 (Wed) 09:23:44

「寄り合い所帯」なのは生まれる前段階であるせいもありますが,
「寄り合い所帯」と「仲良しクラブ」という両端を持つ軸上で,
計算機科学と数学の目指す位置は,違うと思うのです.
数学より,寄り合い所帯の方にずれてる,という気がします.


[0368]渡辺 治 1999-11-17 (Wed) 12:25:18

松井さんの話に割り込んですみません.

>ランダマイズド・アルゴリズムの問題は,対象が「シンタクティック」なの
>であって,問題自体は「シンタクティック」ではないと思います。だからこ
>そ,面白いのでしょう。

ううん.そうでしょうか?すべてが,公理(ルール)の上に乗っかっているだけの話ですよ.つまり,決定性の計算(ランダム性のない計算)もランダム性の計算も,両者ともすべて公理でまずは規定されているものです.その上の比較に過ぎないのですが...これは,以前,根上さんが言われていた「矮小化された世界」ではないでしょうか?
[0369]根上 生也 1999-11-24 (Wed) 13:58:16
私が「メタな研究」と言っていたときと同じ状況に陥っていませんか.

「シンタクティック」だと不慣れな感じがするので,それを「形式的」という言葉で置き換えさせてもらいます.

対象が「形式的である」ことと,「形式的だと思う」ことには差があります.「形式的だと思う」ことは決して形式的ではないと思うのですが.

ルールが書き下せている計算や対象は形式的ですが,それを形式的だと思う行為自体も,何かのルールで書き下せることなのですか?
[0370]松井 知己 1999-11-27 (Sat) 07:08:19

欠番
[0371]根上 生也 1999-11-29 (Mon) 05:27:53

きっと、次女誕生騒ぎで、渡辺さんは忙しいだろうから、ちょっと前の話に戻ります。

松井さんは、

> 「寄り合い所帯」と「仲良しクラブ」という両端を持つ軸上で,
> 計算機科学と数学の目指す位置は,違うと思うのです.

と言っていますが、この文脈だと、数学は「仲良しクラブ」ということになるのでしょうか? そうだとすると、「仲良しクラブ」ってどういう意味ですか? その言葉から「おたっしゃクラブ」という言葉が連想されますが、その話は後程...
[0372]松井 知己 1999-12-01 (Wed) 13:02:16

「寄り合い所帯」も「仲良しクラブ」も悪口です.

「寄り合い所帯」は,いろんな興味や知識を持っている人が,
1つの学問の名前の元に集まっている状態です.
新しく生まれた学問や境界領域学問と呼ばれるものは,
こういう状態にある事が多いです.

「仲良しクラブ」は,
知識や興味を同じにする人が,
1つの学問の名前の元に集まっている状態です.
古くからある学問や,高度な知識を必要とする学問は,
こういう状態にあることが多いです.

で,コンピュータサイエンスと数学を比べると,
仲良しクラブ<−−数学−CS−−>寄り合い所帯
という位置に落ち着くのではないかと思っているということです.

そう思う理由は,コンピュータサイエンスの研究者は,
計算機を通していろいろな分野と接する機会が多いと思うのです.
逆に,様々な分野の人が計算機科学の分野に
ちょっとだけ入り込むという機会も多く,
そのような人達を常に抱えている「寄り合い所帯」の状況は,
ずっと続くと思うのです.
[0373]根上 生也 1999-12-02 (Thu) 08:31:45

なるほど.

私の思う「計算機科学」は「究極の仮想空間」を研究対象とする基礎科学でした.その「究極の仮想空間」というのは,「人間がやりたいこと全体」と思ってもいいでしょう.

そう思うことにすると,その時代時代に,コンピュータと使ってこんなことができるぞ,という「気づき」を得た人が,計算機科学に参画することになるでしょう.ある部分は,抽象化されて基礎科学に昇格するのでしょうが,そういう人の参画がいるの時代でも期待されるので,計算機科学は「寄り合い所帯」でありつづけるという考え方にも一理あると思います.

でも,それを全面的に認めてしまうと,計算幾何学の「天才」というのが排除されてしまいますね.

数学だったら,純粋に数学のことしか関心がない天才というのが成立するでしょう.でも,寄り合い所帯であるかぎり,万人に共通の感覚で,「この人は計算機科学の天才」だと呼ばれる人は存在できないように思います.
<
[0374]根上 生也 1999-12-03 (Fri) 08:29:52
でだ.

そろそろこの鼎談も終結に向かっているので,私の野望を復活させることにします.その野望というのは,「計算機科学を数学のうちに取り込む」というものでした.

松井さんが言っているように,そして,上で私が同意したように,計算機科学はその性格から,いつの時代でも「寄り合い所帯」的な側面が消えることはないのでしょう.でも,その側面しかないのだとすると,基礎科学にはなりえないというのが私の考えでした.

逆にいうと,寄り合い所帯である状態をより高い所から見られる天才(普通の人でもよい)が現れて,抽象的な議論を展開してくれれば,その部分を計算機科学の基礎科学的な部分と思うことができます.この考えは,珍しく渡辺さんも賛成してくれたところだと思います.

でも,その天才というのは,私の目には,数学の天才のように思うのです.渡辺さんがいろいろと紹介してくれた事例の中で,私が基礎科学的だと思うものは,どれも数学的だったと思います.

多少,攻撃的に,「計算機科学者が得意とするとは論理的な演繹だけなのか?」と問い続けていましたが,それって,やはり数学者が得意とするところですよね.

世間的には,数学者といえば,幾何の論証以外は,数式を計算しているだけ,というイメージが定着しているかもしれませんが,分野によっては,あまり複雑な数式など出てこない論文がたくさん書かれています.

少なくとも,私は,数式だけでは解明できない現象を発見して,証明してみせるというのが,モットーです.そういう私の態度を見て,それができないから,数式で計算せざるをえないのだと,好意的に受け止めてくれる数学者もいれば,数式が出てこないから,きっと陳腐な数学なんだと思い込んでいる数学者もいます.

いずれにせよ,長い数学の歴史の流れの中で,その時代ごとに,また,地域ごとに,「数学」と呼ばれていたものは異なっていたと思います.そして,20世紀が終わろうとしているどん詰まりになって,数学自体が新たな様相を見せ始めたのではないでしょうか.正確には,とっくに始まってはいたのだけれど,やっと世間もそれに気づきだしてきた,というべきでしょう.

今思えば,20年くらい前,私がグラフ理論を始めた頃,グラフ理論は,体系的でなく,パズルのような陳腐な数学だと非難されておいり,数学者として手を出すえきではないという高名な数学者もいたのでした.でも,今となっては,こんなことを言う人の方が恥をかく時代になりました.素人向けに紹介される部分が昔ながらのパズル的なのは仕方がないとしても,それだけを見て,専門家の活動を知らずに,非難している方が,見識不足だと思われてしまうです.

とはいえ,私たちは,従来型の(世間が数学だと思っている)数学とはかなりスタイルが違う数学をやっていることは事実です.そのスタイルが新奇だと,それに対応できない人がいてもしかたがたい.(認知心理学的には,それに対応するスキーマが獲得できていないので,それを認知することができない,ということになります.)

となると,自分が数学として受け入れられないことは,数学ではないと考える心理が働きます.でも,そういう心理に依存した議論に終始する人なんか,うるさいだけ.私は適当にあしらうことにしています.

それはさておき,計算機科学の基礎科学的部分は,変質した新しい数学のうちなのではないか,というのが私の主張です.

いかがでしょうか?
[0375]渡辺 治 1999-12-06 (Mon) 14:59:31

実は,今,例の学習理論の国際会議の最中でして,東京にはいるのですが,外泊状態です.皆さんのメッセージは,ダウンロードして読んでいます.(おめでとうのメッセージ,ありがとうございます.元気で成長しています.)

今週末くらいから,また復帰します.
[0376]根上 生也 1999-12-13 (Mon) 06:31:51

欠番


元ファイルの目次へ, 鼎談総集編の表紙